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第068回 2008/01/01
マーラー・ブームの火付け役バーンスタイン
 《 ウイーン・フィルとの交響曲第5番 》

グスタフ・マーラー

 

レナート・バーンスタイン(指揮)
ウィーン・フィルハーモニック管弦楽団 
グスタフ・マーラー『交響曲 第5番 嬰ハ短調』
独ドイツ・グラモフォン 423609‐2(CD)

(録音:1987年9月 フランクフルト)

 


 今年(2008)は、第二次大戦後の20世紀を代表する指揮者の双璧、カラヤンが生誕100周年、バーンスタインが生誕90周年を迎える。凡ゆる意味で好対照だったこの2人のスター指揮者は、生前より東西の人気を二分し自他ともに認めるライバル関係にあったこともあり、改めて賑々しくクラシック・ジャーナル誌上でもクローズアップされることであろう。1908年生まれのカラヤンは、89年に82歳で、彼より10歳若かったバーンスタインも、その後を追うように翌90年、73歳で他界してしまったが・・・。
 年頭に当たって今回は、その予告篇ということでもあるまいが、筆者にとって40年間以上、常に気になる存在であり続けたレニーことバーンスタインと彼が最も得意としたマーラーを中心に話を進めてみたい。

 筆者が、レニーの演奏を生で聴く機会を得たのは、60年代半ばのニューヨークだった。当時の彼はアメリカで最古にして最強だったオーケストラ、ニューヨーク・フィルの音楽監督として新しく完成された音楽の殿堂リンカーン・センター内にある同フィルの本拠地フィルハーモニック・ホール(後にエイブリー・フィッシャー・ホールと改名)を中心に東奔西走の目まぐるしい活躍をしていた。

 1918年、ボストンの近郊ローレンスでロシア系ユダヤ移民の子として生まれたレニーは、子供のころから猛烈な音楽好きだったが、父の意向もあって地元ハーヴァードに進学。哲学、音楽、語学などを学ぶが、そこでギリシャ出身の名指揮者ミトロプーロスとの運命的な出会いがあり、レニーの天分を即座に認めた巨匠から指揮者になることを強く薦められる。彼の推薦でカーティス音楽院に入学し、厳しい指揮科教授フリッツ・ライナーの教室で改めて基礎から徹底的に勉強し直すとともに、夏期にはタングルウッドのバークシャー音楽センターのセミナーに出席するようになる。ここで出会った生涯の師が当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーで、彼からも直接指導を受けることとなった。

 その後暫く不遇な時期もあったが、やがて ”その時がやってくる”。1943年11月14日の日曜日。当日の午后、ニューヨーク・フィルを指揮することになっていた名指揮者ブルーノ・ワルターの突然の病気により、その直前、副指揮者に登録されたばかりのレニーに代役依頼があった。しかも電話による要請は当日の朝であり、全くリハーサルなしで、初めてのニューヨーク・フィルを指揮して大成功を収めたのである。このコンサートはライブで全米に同時放送されたこともあり、アメリカ全土を仰天させる電撃的デビューとなった。
 レニーは、一夜にして20世紀のアメリカが生んだクラシック界最大の寵児となり、以降は順風満帆ながら猛烈に多忙な毎日が彼を襲撃することになる。

 実は、レニーには、もう一つピアニストとしての仕事があった。彼が音楽に興味をもつようになったそもそもの契機がピアノであり、ピアノは彼の原点でもあった。少年期のピアノの先生、ヘレン・コーツ(レニーも告白している通り、彼女がいなかったら後のレニーも存在しないほど影響を与えた)次に彼女の師だったゲープハルト、そして音楽院のときはイサベラ・ヴェンジェロヴァの厳しい指導を受けた。とくに50年代、ピアニストとしてラヴェルのピアノ協奏曲やショスタコヴィチの第2協奏曲、モーツァルトの多くのピアノ協奏曲、あるいはガーシュウィン、コープランド、そして自作のピアノ曲を好んで演奏会でも取り上げた。中でもラヴェルとガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」は、レニーの十八番だった。

 そして作曲家としてのレニー。この43年の衝撃的デビュー前後から、筆者の赴任した60年代前半あたりまでの作品を列記してみると、
 「交響曲第1番(エレミア)」(1942)歌曲集「私は音楽がきらい」(43)バレエ曲「ファンシー・フリー」ミュージカル「踊る大ニューヨーク」(44)「交響曲第2番(不安の時代)」(49)ミュージカル「タヒチの騒動」と「ワンダフル・タウン」(52)「セレナード」「映画”波止場”のための付随音楽」(54)「前奏曲、フーガ&リフ」(55)ミュージカル「キャンディード」(56)、「ウエスト・サイド物語」(57)、「交響曲第3番(カディッシュ)」(63)「チチェスター詩編」(65)。

 その作品内容も、かなりシリアスな硬派の作品から、人気ミュージカルまで多彩を極めた。
 本業?の指揮の分野では、当時ニューヨーク市の後援によるニューヨーク・シティ交響楽団(その後解散)の音楽監督(45〜48)として特に斬新なレパートリーを組んで意欲的に遂行し、47年以降は、パレスチナ交響楽団(現イスラエル・フィル)の常任にも就任。その他、多くのオーケストラに客演する。1957年、師ミトロプーロスとともに、満を持してニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任し、翌58年以降は、単独で69年までの10年間以上にわたって同フィルの音楽監督を務めた。
 作曲、指揮、ピアノ以外にも人気テレビ番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」の台本書きやナレーター役などをこなし、精力的に音楽の普及・啓蒙運動にも全力投球していた。

 筆者がニューヨークに赴任した時期は、レニーにとってそんな最も多忙な時期だったし、自身働き盛りの40代、一番アブラののった全盛期でもあった。
 ニューヨーク・フィルは、このレニー人気で聴衆の動員数もうなぎ上りに増加していたし、何よりも20世紀を通して、ニューヨーク、否アメリカにおいて、クラシック音楽がジャズやロックとともに最も活況を呈しキラキラ輝いていた時代でもあった。
 ところで筆者のレニーに対するスタンスであるが、当時はどちらかといえばクールというか極めて冷淡。今思い出しても恥ずかしい話だが、いつも心のどこか片隅に俺はミーハーではないんだという強がりがあったように記憶する。

 従って、ニューヨーク・フィル/バーンスタインという”黄金コンビ”の年間定期コンサートの予約はせずに、むしろカーネギー・ホールを拠点とした「INTERNATIONAL VISITING ORCHESTRAS」というシリーズのほうを毎年通しで予約をしていた。
 ここではウィーン・フィル/ベーム、ベルリン・フィル/カラヤン、クリーヴランド/セル、フィラデルフィア/オーマンディなどが常連だったし、古参組では、ライナーがニューヨークで急逝した直後だったが、ミュンシュやアンセルメはまだ現役だったし、若手では、マゼール、メータ、小澤、コリン・デーヴィス、ハイティンクなど実に多士済々。オペラでは、老舗のメットに対し、ニューヨーク・シティ・オペラが当時全盛期だった地元ブルックリン生まれの歌姫ビヴァリー・シルズの圧倒的人気で対抗していたし、老雄ストコフスキーもカーネギー・ホールを拠点に若手中心のアメリカン・シンフォニーを定期的に振っていた。当時の筆者にとって何を今更レニーなんかという気持だったのである。

 しかし、これも一段落するとやはりフィルハーモニック・ホールのことが気になり出した。偶々、下宿した処がマンハッタンのウエスト・エンドで、リンカーン・センターから程近かったこともあり、やがて帰途立ち寄っては定期以外のコンサートで空席があったら覗いてみるようになる。

 そこで先ず気づいたのは、レニーの醸し出している和気藹々とした雰囲気であり、例えば、カーネギー・ホールなどには感じられないインティメイトな一体感がいつも充満していた。このホールでは外界から遮断された夢のような心地よい空間が形成されていたのである。オーケストラの団員は嬉々として演奏していたし、それが聴衆にも敏感に反応する。ニューヨークの人たちは、恐らくこうした快適な臨場感を求めてこのホールに集まって来るのであろう。一体、主宰レニーのどこにそんなに惹き付けて離さない魔法のようなパワーがあったのだろうか。

 勿論、彼の若さ、熱意とか一生懸命さ、あるいはいかにもアメリカ人らしい誰にも愛される、持って生まれた明るいキャラクターの反映といったこともあろう。さらに言えば、恐らくレニーは、自分が演奏するどの作品に対しても並々ならぬ関心を抱いていたはずであり、彼自身その音楽にとことん惚れ抜いていた。だから当然その音楽の素晴らしさを楽団員のみならず観衆全てと同じように分かち合いたい、皆で心から音楽の喜びを共有したいという強烈な熱意があったはずで、そのために彼はいつも汗ビッショリになって時には指揮台から飛び上がったりしながら、その演奏に全力を傾注したのであろう。

 例えば、彼はよくアメリカの近・現代音楽を取り上げたが、はっきりいって当時は作曲家の名前も知らないような作品も多く、アメリカ人ならともかく、筆者などこうした曲には最初は何時もある種の拒絶反応を感じたものである。しかし一旦演奏が始まると否応なしに事態は一転する。初めのうちは、騙されるものかと身構えつつ批判的に聴き始めるのだが、知らず知らずのうちに完全にレニーの術中にハマってしまうのである。一種の自己陶酔の伝播作用みたいなものであろうか、このころのレニーには、若さによる勢いというか音楽的興奮を更に倍加させて我々に訴えかける強烈なエネルギーがあった。
 かくして翌年からは年間通しで会員予約(サブスクリプション)を申し込むことと相成ったのである。

 レニーとニューヨーク・フィルの録音は、定期的にほぼ毎週月曜日と設定されていたようだが、その収録作品は、その前の週の定期コンサートで取り上げられた作品であることが多かった。こうすれば、録音のための特別なリハーサルも必要なく、収録も通常一日で終了するという大変効率的なやり方だった。曲目の選定や運営方法は全てレニーに一任されていたようで、例えば、ベートーヴェンとかブラームスといった古典・ロマン派の名曲は、50年代から始まり、60年代前半にほぼ終わっていたし、続いて1960年の生誕100年を機に始まったマーラーが5シーズンにわたって進められていた。レニーといえば、マーラーという程、確たる評価が定まったのはこのころであり、彼は、アメリカにおける「マーラー・ブーム」の火付け役としても知られるようになる。60年代中期以降にはシベリウス、ニールセンなども頻りに取り上げられ、67年にこのシベリウスとともに、史上初となる膨大なマーラーの交響曲全集を完成させている。

 もう一つ、彼はこのころからニューヨークを離れ、ウィーンに出没するようになった。66年春には、ヴェルディの「ファルスタッフ」、68年には、R・シュトラウスの「ばらの騎士」を何れもウィーン国立歌劇場で指揮したし、66年3月には、英デッカ・レーベルに初めてウィーン・フィルを指揮して、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第15番」(これは勿論弾き振り)と「交響曲第36番(リンツ)」、4月には、マーラーの「大地の歌」の録音をしている。
 そして、69年5月、10年以上在籍したニューヨーク・フィルを退任する。(以降、終身桂冠指揮者の称号が与えられる)表向きの理由は、もっと作曲に専念したいという本人の強い希望だった。彼が同フィルの音楽監督として指揮したコンサート数は1000近くにもなるが、音楽監督最後の演奏曲目は、マーラーの「交響曲第3番」だった。

 さて、レニーとマーラー。2人とも同じユダヤ系ではあるが、例えば直接の愛弟子だったワルター、メンゲルベルク、クレンペラーなどと異なり、年齢的にもレニーが直にマーラーから教えを受けたということは勿論ない。ワルターとの接点もないとはいえぬが、レニーの師といえば、やはりミトロプーロスであり、ライナーであり、クーセヴィツキーということになろう。

 しかし、レニーの作曲家マーラーに対する傾倒振りはとても尋常なものではなかったし、それまでの例えばワルターに代表される一般的マーラー像が印象的にも静かな諦観とか落着き、あるいは牧歌的な歌謡性といった要素が強調されたのに対し、レニーのマーラーは、時として思いっきり吠号する怒濤のごとく凄まじいものだった。マーラーの譜面をそのト書きを含めて徹底的に検討し尽くしたという強い自負心の成せる業だったのかもしれぬが、自身も述べている通り、マーラーを演奏するときは完全に作曲家マーラーになり切ってしまっていたようだ。言い替えれば、マーラーがレニーに拠り憑いたのであろうが、マーラーの真の伝道師となることをレニーは最大の名誉としていた。

 彼は、生涯にマーラーの全集を3回録音している。最初が先に述べた60年代ニューヨーク・フィルと、2回目が70年代前半にライブによる映像ながら主にウィーン・フィルと、そして最後が最晩年の80年代後半の録音で、このときのオーケストラはウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、アムステルダム・コンセルトヘボウなどだった。(最後のチクルスで8番「千人の交響曲」と「10番」のみは録音し残してしまった)

 70年代、レニーは、指揮・録音活動の拠点をウィーンへと移し、ここで最も力を入れたのがウィーン・フィルとのマーラーの演奏だった。運命の巡り合せというべきか、20世紀初頭、このウィーン・フィルの首席指揮者として君臨し、このウィーンの地で自身の作品のほとんどを指揮したのがマーラーその人だったのである。言わば、マーラーはかって世紀末ウィーンの象徴的存在でもあった。そしてユダヤ人であるが故にナチスによって長らく演奏を禁じられていたマーラーの作品を再びこのウィーンの地で見事に蘇らせたのが他ならぬレニーだったし、彼自身その復活を自身の最優先の使命と感じていたようである。

 ここでは、その作品の中から、いろいろな意味で現在注目されているマーラーの「交響曲第5番」を取り上げたい。映画「ヴェニスに死す」で余りにも有名になってしまった「アダージェット」を第4楽章にもつ中期を代表する人気作品。全5楽章から成るが、最初の楽章「葬送行進曲」は、次の第2楽章の序奏といえなくもないので、全4楽章とすることも出来る。次の第3楽章がスケルツォ、そしてアダージェットを経て最後の第5楽章が変奏曲的なロンド形式となる。
 次の交響曲第6番・第7番とともに、この3つの交響曲は頗る器楽的な作品で共通性も多い。ムードとしては、才色兼備の社交界の名花、アルマとの念願の結婚を果たした喜びとともに当時彼を襲っていた病魔の影響か、そのなかに憂愁とか諦観も感じさせる作品で、やや分裂症的でもある。

 今回の推薦盤は最後の録音であるウィーン・フィル(同フィルとは2回目の第5番)との演奏としたい。
 ニューヨーク・フィルとの若々しい勢いもいいが、70年代のウィーン・フィルとの激しい格闘を経て、やがて80年代、死の3年前になって再びウィーン・フィルと演奏したのがこのライブ録音だった。落ち着いた諦観とほのかな明るさが感じられ、前2つの録音のような強い気負いがない。ここにはレニーのそれまでの全てのメッセージが込めるられているような気がする。

 さて、誰にも愛されたレニーことバーンスタインと生涯の宿敵カラヤン。今年はこの2人による節目の年の対決の年となる。とは言っても2人は既に故人となって20年近くが経っているので、夫々のファンもしくはサポーター陣営による応援合戦と言い替えた方がよさそうだ。新事実を含めて一体、この2人の人気指揮者を巡ってどんな興味ある話題が期待できるのであろうか。今年もまた大いに楽しみである。

 ジャケットのアールデコー調のイラストは、「秋の歌」という題の付いたエルテの作品。

 


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