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第069回 2008/04/01
映画「乱」をめぐる監督・黒澤と作曲家・武満

RAN

米ファンタジー  FSP-21004 
オリジナル・サウンド・トラック:映画『乱』

監督:黒澤明  
台本:黒澤明/井手雅人
音楽:武満徹
キャスト:仲代達矢 原田美枝子 根津甚八 寺尾聡 ピーターほか
演奏:鯉沼広行(篠笛)札幌交響楽団/岩城宏之(指揮) 
(1985年製作)

 今年(2008)1月封切りの映画で、女優・吉永小百合が戦時中の母親役で主演した山田洋次監督作品「母(かあ)べえ」は中々の評判のようであるが、この原作者、野上照代の著書に「天気待ちー監督・黒澤明とともに」(2001年 文芸春秋社刊)と題するエッセイ集があった。
 1950年、黒澤作品「羅生門」のころから、映画会社、大映のスクリプターとして監督・黒澤明づきとなって以来、最後は黒澤プロダクションのマネージャーとして天皇といわれた希代の超ワンマン監督に仕えてほぼ50年。その間に起こった涙あり笑いありの巨匠をめぐる一部始終が軽妙なタッチで描かれた好著であった。
 その中の「黒澤さんと音楽」という一節に、凡そ不可能という言葉とは無縁そうだった巨匠にとって、こればっかりは如何ともし難いものが、天気と動物と音楽の3つだったというくだりがある。
 黒澤映画の音楽といえば、まず思い出されるのが早坂文雄である。1948年の「酔いどれ天使」以降、「野良犬」「羅生門」「生きる」そして54年の「七人の侍」まで7本の音楽を担当するが、55年「生きものの記録」の制作中、41歳の若さで急逝。途中引き継いだ早坂の弟子、佐藤勝は、次の「蜘蛛巣城」から65年の「赤ひげ」までの8本を担当。しかし次の予定作品「影武者(80)」では自ら中途で辞退してしまう。野上さんによると、前作「赤ひげ」以来、制作過程で監督と佐藤との間では、どんな音楽にするかでのっぴきならない対立が生じていたためである。同じ早坂の弟弟子で前作「どですかでん」(70)でも音楽を担当した武満徹に白羽の矢が立てられたが、武満はアメリカにいたため、彼の推薦で急きょ池辺晋一郎に代わって完了し事なきを得た。
 しかし次の予定作品「乱」では、当然のごとく早々に音楽は武満の担当ということに決まっていた。この映画「乱」は、1976年に早々と脚本が出来上がっていて、黒澤にとっては長い間、暖めてきた超大作であった。実際は予定された膨大な制作資金の目処が立たず、映画化も伸び伸びになっていたが、漸くフランスからの資金協力も取り付けられて念願の撮影が開始されたのが、84年6月。翌85年2月に無事撮影も終了した。制作費27億、エキストラ数1000人、馬200頭、鎧兜1400領、鉄砲、槍ともに500丁づつなど、何れも超ど級のスケールだった。あらすじは、シェイクスピアの悲劇「リア王」がベースになっていて、これに毛利元就の「3本の矢」の故事などが取り入れられる。脚本は、黒澤、小国英雄、井手雅人でスタートしたが、何故か小国が途中で下りている。
 時代は戦国の世、3つの城を領有する(架空の)戦国武将、一文字秀虎と彼の3人の息子たちとの確執、さらにはその3人の兄弟同士の骨肉の争いを描いている。
 ある日、巻狩あとの酒宴の席で秀虎は突然家督と一の城を長男に譲り、次男と三男には夫々二の城と三の城を譲って自身は隠居することを告げる。そのとき引き合いに出したのが「三本の矢」の故事である。その場で直ちに反論したのが、父親思いの三男・三郎で、「そんなことをすれば、助け合うどころか、息子たちが血で血を洗う争いになるだろう」と父親をたしなめ、3本の矢を力ずくで折ってしまう。客人たちの前で侮辱されたと感じた秀虎は、即刻、三郎と忠臣丹後を追放する。三郎を気に入った客人の一人の国主、藤巻は、彼を婿として迎えることを決める。しかし、秀虎の残り2人の息子に賭けた期待はアッという間に裏切られることになる。
 長男・太郎の奥方・楓の方は、親兄弟を秀虎に殺された恨みから好機到来とばかり太郎を操り、家来たちとともに一の城、二の丸に居座る秀虎に以降家督である自分の命令に従うよう通告する。太郎の態度に腹をたてた秀虎は、家来たちを連れて二の城の次郎のもとに赴くが、太郎から連絡を受けていた次郎は家来抜きなら受け入れてもよいと告げる。長年の家来たちを見捨てることなど出来ない秀虎は、直ちに城を出て野をさまようが、その一行のもとに三郎と忠臣丹後が現れる。一行を藤巻の所領へ案内したいと申し出るが、太郎と通じていた秀虎の家来の言で、主の居ない三の城に入る。そこに待ち受けていたのは罠であり、太郎と次郎の軍による城攻めで三の城はあっけなく落城し、阿鼻叫喚の地獄絵となった。その間、次郎の家来の銃弾により太郎は死に、家督は次郎へと移る。正気を失った秀虎は再び野へとさまよい出る。今や従う者は忠臣丹後と狂阿弥の2人だけとなった。復讐の鬼と化した楓の方は、力ずくと色仕掛けで次郎を自分のものとし、一文字家の事実上の実権を握る。方や忠臣丹後は三郎の援軍を求めて藤巻へと出発。三郎は父秀虎救出のため直ちに大軍を八幡原へと出兵。楓の方にそそのかされた次郎の軍も出陣して両軍は激突する。激戦の末、一の城へと敗走する次郎軍と炎上する城の中で次郎と楓の方は惨殺。しかし、勝ち戦の後、引き上げる秀虎と三郎も銃弾を浴びる。2人の屍をかついだ隊列が夕暮れのなかを粛々と進む。ここに戦国の雄、一文字家は完全に滅亡する。
 狂阿弥が「神も仏も居ないのか?」と叫ぶが、丹後が答える。「神や仏をののしるな!泣いているのだ神や仏は!何時の世にも・・・殺し合わねば生きてはゆけぬこの人間の愚かさは、神や仏も救う術はないのだ!」
 どうにもならない愚かな人間の業により全てが滅びいく無常観を壮大なスケールとダイナミズム、そして美しい絵巻物のごとき絢爛たる様式美で描き切った75歳の黒澤による渾身の大作となった。彼にとって27作目に当たる85年公開作品であり、時代劇としては生涯最後の作品となった。自身も述べている通り、この作品は彼の「ライフワーク」であり、この世に残したかった「人類への遺言」でもあった。
 85年米アカデミー賞監督賞ノミネート、全米批評家協会賞作品賞、ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞、86年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、87年英国アカデミー賞外国語映画賞、ロンドン映画批評家賞監督賞などを受賞する。

 さて映画音楽をめぐる騒動は、この撮影がすべて終わった後に起こった。黒澤にしてみれば、台本執筆当時は確かに武満の「ノヴェンバー・ステップス」をバックに流しながら作業をしたかもしれないが、それから10年近くを経た撮影本番のころになると、彼の頭の中で常に鳴り響いていたのはマーラーであり、具体的には交響曲第1番「巨人」と「大地の歌」であった。片や、武満にしてみれば、音楽を任されて以来、これまた10年近くの間、同じように暖めていた彼自身の構想があった。当然のことながらマーラーとは凡そ似て非なる武満独特の音楽であった。この映画の中で音楽的にも最も重要な場面は、一つは前半のピークである三の城の落城シーン、もう一つは最後の主人公秀虎と三郎の屍を運ぶシーンである。とくに落城シーンは脚本にも「音楽以外の音は入れない、(中略)その画に重ねる音楽は、・・・数知れぬ仏たちの号泣のごとく聞こえてくる」となっている。武満が最も苦心したのもこの場面の音楽であり、だからこそラッシュ試写の際には絶対に監督の意中の音楽は入れないことを要求した。しかし監督は監督で自分が暖めていた音楽をここに入れたい。武満によれば、この試写段階で、監督によってマーラーを前提に編集された音楽が既に入っていたという。それは笛の音をバックに「大地の歌」の終楽章「告別」のアルトによるソロが死体の累々とした戦場に響きわたるというものだった。
 ちなみに後者の屍シーンでも同じくマーラーの「巨人」の第3楽章の虚無感に満ちた荘重な曲がまるで葬送行進曲のようにティンパニー入りで付けられていた。
 いよいよ北海道で武満の盟友、岩城宏之指揮の下、札幌交響楽団による録音中、2人の天才「世界のクロサワ」と「世界のタケミツ」による最初の衝突があった。お互いが引かないとった状況だったようで、この辺りの経緯は当事者の2人が他界した現在、間に入って随分と苦労をされた生き証人、野上女史の上掲書に詳しい。2人の激闘は、北海道から東京へと移され、完成を前にして最後のダビング仕上げのときに爆発する。
監督が音楽についても録音技師などに直接あれこれと指示するのを忌々しく眺めていた武満、ついに立ち上がって、
「黒澤さん!僕の音楽を切っても貼っても結構です。お好きなように使って下さい。でも、タイトルからは僕の名前をけずってほしい。それだけです!僕はもう、やめる。帰ります!」(前掲書)と言うなり出て行ってしまった。
 結局、プロデューサーが間に入って、武満の説得に成功し、映画「乱」は、予定の時期を更に遅れることなく85年6月、全国一斉に公開されたという。

 映画音楽には、いろいろな制約が付きものである。作品全体に対する芸術的責任は監督が負うべきものであろうから、いくら無理難題であっても最終的にはそのいうことは聞かなければならない。とくに、黒澤の場合、「影武者」の音楽を途中で担当した池辺によれば、「十全の、つまり一の音楽を書かないでほしい。音楽を必要とする箇所は、映像も一じゃないんだ」彼はあくまで「映像と音楽が合わさって一になる」音楽を求めた。早坂によれば、「画面と結合することによって、(中略)そこになにものかが喚起され、その音楽自体に別な意味が付与されるようなものでなくてはならない」これは、武満とて同じである。「私はこれまで幾つかの映画のための音楽を書いてきましたが、そのスタイルはさまざまです。映画音楽の作曲家は、・・・演出家、あるいは映像から思いがけない自分をひきだされるものです。また、そうした影響力の強い映像に接することが作曲家に新しい勇気と意欲をあたえます」(「映画とその音響」から)。また、こうも述べている、「相乗する視覚と聴覚の総合が映画というものであり、映画音楽は、演奏会場で聴かれるものとは、自ずから、その機能を異にする。飽くまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない」(「映画音楽 音を削る大切さ」より)。
 しかしながら、一旦出来上がった音楽作品自体は、やがてその作曲の契機となった映画とは全く独立して一人歩きを始め、その音楽自体に対して評価が下されることもまた確かであろう。例えば、プロコフィエフの「キージェ中尉」(33) 「アレクサンドル・ネフスキー」(38)「イワン雷帝」(44〜46)やショスタコーヴィッチの「レニングラード交響楽」(57)「ハムレット」(64) 「リア王」(71)、フランス7人組ではオネゲル、ミヨー、オーリックによる幾多の作品、バーンスタインが付けた「波止場」(54)の音楽なども管弦楽用に編曲されて、今では元の映画とは独立して演奏され、光芒を放ち続けている。

 武満がこの大作「乱」に付した音楽は、彼が他の映画のために作曲した音楽と比べると、スタイル的には調性の施されたややオーソドックスなものである。しかし、和楽器の使用法なども含めて、やはり素晴らしい音楽効果をあげており、筆者など彼の映画音楽の中でも最高傑作に属するのではないかと思う。確かに武満としては監督の要請などにより、不本意ながら相当程度に妥協すべき点もあったのかもしれない。しかし、少なくとも最終的に完成された作品からは、そうしたことは毫も感じられない。たとえば問題の三の城炎上のシーンでは、結局、武満の主張通り女性ソロは使われなかったが、正しく作曲家渾身の美しい音楽が鳴り響いていたし、最後の葬送シーンも無常観あふれる素晴らしいものだった。使用されたティンパニーについて、演奏を指揮した岩城は武満らしくないとコメントしたという。あるいはそうかもしれないが、この場面では十分生かされていると思うし、少なくとも不自然さは感じられない。そして、何よりも、音楽だけを聴いたとき、いかにも武満らしく作品全体が透明感に溢れ、しかも他に類例がないほど美しい音楽に仕上がっていた。

 武満徹。1930年、東京生まれ。作曲は独学だが、48年(18歳)から清瀬保二に師事。51年、新進気鋭の詩人、画家、写真家等と共に「実験工房」を設立。実験的作品の創作を行うが、「弦楽のためのレクィエム」(57)「地平線のドーリア」(66)「ノヴェンバー・ステップス」(67)などが国際的な評価を得て、日本を代表する作曲家となる。他方、映画音楽の日本におけるパイオニア、早坂文雄のもとでアシスタントをつとめ、56年以降、100数本の映画音楽を作曲、これらも高い評価を得た。96年2月、ガンのため他界。(享年65歳)

 最後に野上さんのエッセイの大変興味のある結末に戻って本コラムを終えたい。

 ダビング終了の日、スタジオ内で関係者が集まりビールで乾杯のあと、監督が「お疲れさま。ありがとう」と言って引き上げた。武満は缶ビール片手にご機嫌だったが、突然ピアノの前に行って次のような歌を即興で歌い出したという。

昨日の悲しみ、きょうの涙
明日は晴れかな、曇りかな
昨日の苦しみ、今日の悩み
明日は晴れかな、曇りかな

 野上さんは、「武満さんは『これはね、黒澤さんに捧げる歌なんだ』といって笑った。その時の武満さんは、はしゃいでいるように見えた。でも、悲しかったのかもしれない。」と結んでおられる。
 事実、これ以降、武満が黒沢作品に関わることは一切なく、武満にとって作品「乱」は最後の黒澤映画となった。

 武満が逝った翌年の97年12月、黒澤の長い間の盟友だった俳優・三船敏郎も往き(享年77歳)、翌98年9月、黒澤本人が脳卒中のため他界した。享年88歳。そして翌99年12月には、同じく黒澤作品の多くの音楽を手がけた作曲家・佐藤勝が亡くなった。享年71歳。
こうして 侍たちは 21世紀を待たずに次々とあの世へと旅立っていった。
早いもので今年は監督・黒澤明の没後10周年ということになる。

 ジャケットは最後の戦闘場面からのショット。デザインは、ボルティモア・タティックスとクレディットされている。


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