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第064回 2007/11/05
「歌に生き、愛に生きた」悲劇の”ディーヴァ”
 マリア・カラスの生涯

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ジャコモ・プッチーニ/歌劇『トスカ』

M・カラス(S)G・ディ・ステファーノ(T)T・ゴッビ(Br)F・カラブレーゼ(Bs)ほか
ヴィクトル・デ・サバタ指揮
ミラノ・スカラ座合唱団&管弦楽団

(録音:1953年8月10‐21日 ミラノ)
米エンジェル 3508B/L (2)

 


 ”ディーヴァ”と呼ばれた20世紀最高のプリマドンナ、マリア・カラスは、広い声域と豊かな声量、卓越したテクニック、そして美しい容姿とドラマティックな演技力を存分に駆使して、極めて広いレパートリーを歌い演じて、人々に大きな感銘を与えた。その範囲は18世紀初頭のイタリア・ベルカントのケルビーニ、ドニゼッティ、ベルリーニ、そしてヴェルディの「椿姫」を初めとする数々のオペラ、「カルメン」やワーグナーなどのフランスやドイツ・オペラ、19世紀末のマスカーニ、ポンキエルリ、プッチーニに及び、生涯に50近い主役を歌った。
 1923年、ギリシャ系移民を両親としてニューヨークに生まれ、77年に波乱の生涯を終えたが、享年53歳。
 今年(2007年)9月16日はマリアの没後30回目の命日ということで、これにあわせて日本でもケーブルTV(クラシカ・ジャパン)では、2003年に英BBC制作になる特別映像番組「マリア・カラスの肖像 ─歌に生き、愛に生き」が放映された。
 1964年2月9日、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場で上演されたマリアによる「トスカ」の録画をもとに、そのときの演出家、ゼフィレルリ、同じく相手役スカルピアを演じたゴッビを初め、ジョン・コプリー(演出家)、グレース・バンブリー(ソプラノ歌手)、プラシド・ドミンゴ(指揮者兼テナー歌手)、アントニオ・パパーノ(指揮者)、ニコラス・ゲイジ(伝記作者)らマリアをよく知る証言者たちが相次いで登場し、生前の彼女を回想するという中々面白い企画だった。
 この素材に使われた録画は、白黒による第2幕のみであるが、指揮はチラーリオ、カヴァラドッシ役をチオーニ、スカルピアをゴッビが演じている。
 ちなみに、オペラ「トスカ」は、マリアにとっても大変特別な作品であり、18歳のとき第二の故郷アテネの歌劇場でのデビュー作品だったし、1965年、生涯最後のオペラ出演となったロンドン・コヴェント・ガーデンでの演目でもあった。(そのときの配役もジョルジュ・プレートル指揮の下、相手役はチオーニのカヴァラドッシ、ゴッビのスカルピアだった)

 大変有名なオペラではあるが、以下 簡単にストーリーを記しておきたい。
 元々は19世紀希代の名女優サラ・ベルナールのためにフランスの劇作家サルドゥが書き下ろした戯曲「トスカ」からジャコーザらにより三幕ものオペラに仕立てられたもの。
 舞台は、1800年ごろのローマ、当時ヨーロッパではナポレオン旋風が吹き荒れている。共和主義者弾圧の総元締、ローマ警視総監スカルピアは、美しい歌姫トスカに横恋慕し、自分のものとすべく企んでいる。トスカには相思相愛の恋人、画家のカヴァラドッシがいて、彼は脱獄中の友人である共和派の領袖アンジェロッティを匿っている。狡猾なスカルピアは、トスカをおとりにしてカヴァラドッシを逮捕し、拷問の上死刑を宣告、他方トスカに対しては自分に体を与えるなら彼を許そうと取引を持ちかける。このときトスカが歌う有名なアリアが「歌に生き、恋に生き」である。意を決したトスカは、取引に従うふりを装ってスカルピアが2人の国外逃亡用の通行証に署名後、そこにあったナイフで彼を刺し殺してしまう。終幕は、サンタンジェロ城の城壁のほとり。銃殺を前にトスカとの在りし日の愛の喜びを偲びながらアリア「星はきらめき」を歌うカヴァラドッシ。そこにトスカが駆けつけて、スカルピアを殺したことを伝え、銃殺刑の執行はあくまで形式的故、撃たれたふりをして倒れるように指示する。しかし執行後、駆け寄ってみるとカヴァラドッシは本当に殺されていた。スカルピアに騙されたのである。やがてスカルピアの死を知った衛兵たち追手が背後に迫り、トスカは城壁の上から身を翻して恋人のあとを追う。
 ヒロインのトスカは、貧しい孤児から身を起こし修道院生活を経てオペラで成功した美貌の歌姫で、気性の激しい情熱家だが信心深い。共和主義者の画家カヴァラドッシは、ローマ貴族の末裔で、教会壁画の修復をしている、何といってもこのオペラで異彩を放っているのは、徹底的な悪の権化である男爵スカルピアの存在であろう。このナポリ王国から派遣されたシチリア生まれの警視総監は、圧倒的な権力をバックにナポレオン派に組する共和主義者を容赦なく弾圧することに密かな快感を感ずるとともに無類の好色家でもあった。

 最初に戻って、この放映された特別映像では、マリアにとって生涯で最もドラマティックで波乱に満ちた時期、1960年以降に話題が集中するのだが、当時マリアは、ギリシャの海運王であり大富豪オナシスと恋愛中であった。
 59年夏、マリアと夫メネギー二が、前英国首相チャーチル夫妻などと共にオナシスの豪華ヨットに招かれたのが、そもそも波乱の発端だった。(実際は、57年に2人はパーティで対面している)その2ヶ月後、それまで私財を投げうってマリアを支えてきた夫メネギーニを捨てて、オナシスのもとに走ったマリアは、歌による名声までも捨ててしまう。かつて経験したこともない目も眩むようなオナシスの別世界にのめり込み、ほとんどの時間をオナシスとエーゲ海のヨットで過ごすマリアにとって厳しいトレーニングと時間も自由にならないオペラ出演の回数は極端に減り、時間的にも比較的自由なアリア中心のコンサートやレコーディングが増えていく。
 実は、彼女自身一番気にしていたことは、ノドの障害、とくに高音域におけるトラブルだった。勝手気ままに思えるキャンセルや上演中の途中退場が相次ぐようになったのもこの頃からで、ドタキャンはマリアの代名詞のようになっていた。ノド障害の理由は、初期の重い役柄での度重なる無理な発声あるいは不適切なヴォイス・トレーニング、あまりに極端なダイエット、更年期障害、あるいは精神的ストレスの影響など各方面から論じられた。
 やがて61年の「メディア」を最後にマリアの本格的なオペラ出演は数年間、皆無の状態になってしまう。このときマリアのオペラへの出演復活に動き出したのが、当時ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場のGM、デイヴィッド・ウエブスターたちだった。彼らは、マリアを説き伏せ、久方ぶりの上演にこぎ着けたのが、上記の特別映像の劇中劇になっている64年2月公演の「トスカ」だった。
 この映像では、「トスカ」の劇中人物、ローマの警視総監で極悪非道、しかしながら独特な魅力も合わせもつスカルピアをオナシスの実像と重ね合わせながら話を進展させていく。
 しかし、翌65年5月、パリ・オペラ座で「ノルマ」を上演中、またもや第3幕でマリアは声を失い、キャンセルせざるを得なかった。これはマリアにとり、予想以上にショックな出来事だった。そして、同年7月、ロンドンでの「トスカ」を最後に事実上オペラの舞台から完全に引退してしまうのである。
 他方、オナシスもまた60年に、自身の出世の契機となった元海運王の娘アシーナと離婚し、オナシス周囲の誰しもがマリアとの結婚を信じていた。
 そして68年3月、ロンドンでマリアとオナシスとの挙式が準備されたに拘らず、婚約は突然解消される。周知の如く元アメリカ大統領ケネディの未亡人ジャックリーヌの出現と度重なる密会の末、オナシスはジャックリーヌを選んだのである。因果応報というべきか、今度はオナシスがマリアのもとを去り、ジャックリーヌに走ったのだった。
 「歌に生き、愛に生きた」マリアは、声と恋の両方を一度に失った後、マスコミを避けてパリのアパートに引き蘢るようになるが、薬物に頼るようになったのもこの時期だったといわれる。引き続きマリアのオペラ復帰への運動も続けられたが、結局実現されることはなかった。
 そうした中、1971‐72年、ニューヨークのジュリアード音楽院でのマスター・クラスでのレッスンや、73年と74年、友人ディ・ステファーノとワールド・ツアーに出かけたことは、束の間の癒しとなったようだ。(マリアにとって聴衆を前にした最後の公演が、74年11月11日の札幌だった)
 1973年、オナシスの愛息アレクサンダーが自家用飛行機による事故死、オナシスは大変なショックを受けて、その2年後には自身も死去、晩年はそのオナシスと連絡を取っていたという噂もあるが、その2年後の77年にパリのアパートでマリアも心臓マヒによりひっそりと息を引き取った。一説には、睡眠薬の使い過ぎが直接の原因だったともいわれる。20世紀最大のディーヴァの最後は極めて孤独で寂しいものだった。
 そういえば、この「トスカ」の結末もトスカ、カヴァラドッシ、スカルピアの主役の3人が最後は皆死んでしまう悲劇である。
 ちなみに、マリアは、生涯に「トスカ」を舞台で53回歌ったが、これは、「ノルマ」(84回)と「椿姫」(58回)に次ぐ回数であり、最も得意とした役の一つでもあった。

 今回取り上げたレコードは1953年録音。マリア30歳、甘い美声で一世を風靡したテナーのディ・ステファーノは31歳、その後もマリアと組んで最高のスカルピアを演じた名バリトン、ゴッビが38歳と何れもが年齢的には絶頂期であり、しかも指揮は1929年トスカニーニの後を継いでミラノ・スカラ座の音楽監督に就任し、53年までその任にあって同オペラ場の黄金時代を築いたイタリア・オペラ最高の巨匠、ヴィクトル・デ・サバタ。モノーラルながら、このオペラの決定盤といわれる。
 マリアは、あくまで情熱的でその声には艶と漲るような張りがあり、ディ・ステファーノも若々しく絶好調、ゴッビはこれ以上ない重厚かつ溌剌とした悪役振りで、3者3様夫々に個性的だった。しかも互いに見事なアンサンブルを示し、デ・サバタの絶妙なバックアップがしっかりと全体を支えている。恐らく空前絶後の名録音ではなかろうか。

 ジャケットは、18世紀イタリアの風景画家ベルナルト・ベロットによるテヴェレ河風景。有名なヴェネツィア派の風景画家カナレットは、彼の伯父に当たる。右側円筒状の建物がこのオペラ終幕の舞台となるサンタンジェロ城。西暦135年、ハドリアヌス帝によって自身の霊廟として建設されたが、後に要塞や牢獄に転用された。真ん中の橋は西暦134年に建設されたサンタンジェロ(古)橋で、左側遠方に見えるのがサン・ピエトロ大聖堂であろう。ちょうどトスカが生きたころのローマの原風景でもある

 


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