来年(2008)は、”ザ・ヴォイス”と呼ばれた20世紀最大のエンターテイナー、フランク・シナトラの没後10周年ということなる。
ステージや録音における近代兵器のマイクを存分に駆使した抜群の歌唱力とカリスマ性を備えた圧倒的存在感、「地上より永遠に」や「黄金の腕」など50本を超える映画で示した迫真の演技・・・。晩年は 功なり名遂げて自らのレコード会社やラスヴェガスに豪華ホテルを所有して帝王のごとく芸能界に君臨した新天地アメリカが生んだサクセス・ストーリーの輝けるヒーローでもあった。
本名、フランシス・アルバート・シナトラ。
1915年12月12日、ニューヨーク市マンハッタン島とハドソン川をはさんだ直ぐ対岸の港町ニュージャージー州ホボーケンで生まれる。
両親は何れも中流以下のイタリア系移民。父マーティンはシチリア出身で靴修理の見習いや造船所のボイラー係などを経て、やがて自分の酒場を持つようになる。母ドリーはジェノヴァ出身の看護婦、中々やり手と評判だった。両親のささやかな夢は一人息子だったフランクを地元ホボーケンの工科大学に入れて堅気のエンジニアにすることだった。(後年シナトラは、このスティーヴンス工科大学から名誉博士号を授けられる)
親の心子知らずというべきか、歌の好きな少年にとって憧れの存在は、当時アメリカで人気絶頂のビング・クロスビーであり、夢は彼のようになることだった。
33年、17歳のとき、恋人ナンシー・バーベイトとその長年のアイドル、クロスビーのステージに初めて接するや、歌手志望への夢は増々拡大していく。
35年、地区で人気のノド自慢大会で優勝後、グループの一員ではあるが、プロ・デビューし、38年にはソロとしてニュージャージーのロードハウスで歌い始める。翌39年、幼なじみのナンシーと結婚。同年、バンド・リーダーのハリー・ジェイムズに認められ、設立直後の楽団に専属歌手として採用される。シナトラ24歳。
以下、年代順にその後の略歴を列記すると
40年 ハリー・ジェイムズ楽団から当時人気絶頂のトミー・ドーシー楽団に移籍し、大きく成長するとともに、バンドシンガーとして超人気者になる。
42年 この楽団を退団して、自身の楽団をもち、以降52年までコロムビア・レコード専属となる。ビロードのような声と強烈なセックス・アピールでスウーナー(SWOONER=悶絶させる人)とよばれ、アイドル的な人気ナンバーワン・シンガーの時代が続く。
44年10月 ニューヨークのパラマウント劇場での公演で、シナトラ旋風は頂点に達する。
49年 ダウンビート誌の人気投票で長年維持してきた男性シンガー・トップの座を明け渡す。女優エヴァ・ガードナーと付き合い始めたのもこの頃だった。
50年 過労とストレスなどが原因で咽喉障害による出血で声が全く出なくなる。医師よりは暫く絶対安静を命じられ、シナトラにとって生涯最悪のスランプの時期となった。
51年 ナンシーと離婚し、エヴァと結婚。(57年に離婚)
52年 コロムビアおよびMGMより専属契約を打ち切られる。
53年 ハリウッドの新興レーベル・キャピトルと専属契約を結ぶ。62年まで継続するが、当初は契約期間は1年のみ、前渡金なしで編曲料など全ての経費はシナトラ持ち、僅かな印税だけという厳しい条件だった。
同年、幸運にもジンネマン監督によるハリウッド映画「地上より永遠に」に出演のチャンスを得る。不条理の軍隊内でイタリア系二等兵マジオを演じることは彼の宿願であり、この役でアカデミー賞助演男優賞受賞を獲得した。(37歳)
これを転機に映画の出演依頼が殺到する。主な出演映画を列記すると、
「黄金の腕」(1955)、「野郎どもと女たち」(1955)、「上流階級」(1956)、「夜の豹」(1957)、「波も涙も暖かい」(1959)、「カンカン」(1960)などだった。
更にネルソン・リドルという好アレンジャーを得て、歌のほうでもモダン性と深みを加えた新境地を開拓し、見事カムバックを果たす。
62年 キャピトルとの契約満了。しかしその前に60年、自身の会社リプリーズ・レコードを設立し、61年1月に正式にスタートさせる。
66年 女優のミア・ファローと結婚。(68年に離婚)
71年3月 歌手引退宣言を発表し、6月にロスで引退公演を開催。(55歳)
73年10月 ファンの強い要望によりカムバックする。これ以降を後期リプリーズ時代としている。
今回取り上げたシナトラのLPレコードは、このカムバック直後の1974年10月13日、ニューヨーク市マディスン・スクウェア・ガーデンでのライヴを収録したものである。このコンサートは、ABCテレビのネットを通してリアルタイムで全米向けにテレビ中継された。レコードでは、「あなたはしっかり私のもの」や「マイ・ウエイ」など一部がそれに先立つ録音と差し替えられてはいるものの、このレコードからもコンサートの物凄い熱気が伝わってくる。いかにシナトラが、圧倒的なカリスマ性をもったスーパースターであったかが分かろうというもの。
「ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ」、「君にこそ心ときめく」、「ニューヨークの秋」、「エンジェル・アイ」以下、全部で11曲が歌われるが、何れもジャズやポップスのスタンダード・ナンバーを中心としたシナトラの18番で固められる。しかし中でも最後に歌われる「マイ・ウエイ」がやはり白眉であろう。彼が辿ってきた長い経歴そのものが、実にヒロイックに歌い込まれた熱唱であった。
以下、彼の輝かしいカムバック以降を若干補足しておきたい。
76年 バーバラと結婚し、彼女は98年シナトラの死去まで添い遂げる。
大変なプレイボーイだった彼は、この4回の結婚以外にも、生涯にローレン・バコール、キム・ノヴァク、シャーリー・マクレーンなどハリウッドの女優を含め数多く浮き名を流した。
85年4月 初めての日本公演。以降94年までに計4回の訪日公演をする。
85年5月 レーガン大統領よりシナトラの長年の功績に対しアメリカ国民にとり最高の名誉である「大統領自由勲章」授与される。同年、歌手生活50周年記念公演をカーネギーホールで開催。
95年2月、パーム・スプリングで生涯でのラスト・ショーを開催。(79歳)
同年12月には、80歳の祝賀パーティ&コンサートがロスで行われ、全米にTV中継された。
97年5月 米議会からゴールドメダルが授与される。
98年5月14日、心臓発作によりロスアンジェルスで死去。(82歳)
翌15日には、ラスヴェガスでは夜1分間すべての照明が消灯、ニューヨーク、ヤンキー・スタジアムでも試合前黙祷、エンパイア・ステート・ビルでは照明を青に変えて哀悼の意が表された。数日後ビヴァリーヒルズの教会で行われた通夜と葬儀には、全米や世界各地から政・財界や映画・芸能界の1,000人を超える有名人が参列し、それをマスコミやファンが取り囲んで、このスーパースターの死を悼んだ。
アメリカや全世界の多くのファンに愛され、しかも数々の受賞や名誉を受けながら、華やかな一生を全うしたシナトラにとって、これら数えきれない栄誉は紛れもなく目映いばかりの光の部分だった。
これに対し、常につきまとったマフィアとの噂は、シナトラの影の部分の象徴といってよいだろう。
マフィアという言葉は、今や広く暴力団の意味に使われるが、本来はイタリアのシチリア島で発生し、イタリア移民とともにアメリカにも定着、当初は移民同志の相互扶助を目的とした組織でもあったようだ。やがて血の掟による秘密結社化して密輸、麻薬、売春などを生業とする犯罪組織となっていく。言わば、アメリカの恥部ともいわれ、その実態は映画「ゴッドファーザー」で一躍有名になった。一般市民に危害を加えることは、あまりないということだが、最近では、不動産業など合法的ビジネスにシフトするなど活動内容は常に流動的といわれている。
フランクの父マーティンは、マフィア発祥の地、シチリアの出身、アメリカに移住してからも、後に酒場を経営するなど、少なからずその影響下にあったことは想像に難くないし、息子フランクも歌手の道を志した以上、この分野に強い地盤をもつマフィアの存在を無視することは難しかったのあろう、シナトラを巡っては、生涯、マフィアとの関係が取り沙汰され、大統領 J.F.ケネデイ暗殺への関与にまで疑いが掛けられた。実は、シナトラとマフィアとの関係については、FBIによる2000ページ以上にも及ぶ膨大な調査ファイルが存在し、彼の死後、情報公開法に基づいて米メディアの要請により公開された。このファイルには、国家機密に関するという理由で25ページ分が非公開であったが、少なくともそれ以外の公開された報告書からは、シナトラと大物ボスたちとの繋がりはあったものの、彼がJFK暗殺とか直接に反社会的行為に関わったという確証はなかったようである。もっとも、このマフィアという組織、徹底した厳しい掟により容易に全貌が外部に漏れることはなく、確証がないからといってシナトラを巡るマフィアとの黒い噂は死後も闇として残っている。
しかしながら、このシナトラに関わる光と影は、見方を変えれば現代アメリカが抱えている光と影の部分をそのまま反映していると言えなくもない。
ともかくも貧しいイタリア移民の子として生まれたシナトラは、懸命に幾多の苦難を乗り越えて最後は功なり名遂げて、ほとんど全てのアメリカ国民から祝福を受けながら82年の長い生涯を全うしたという事実は確かであろう。
最後に、このレコードでも歌われる「マイ・ウエイ」の訳詩を掲げて このコラムを終えたい。(ちなみに、この原曲は、元々 J・ルヴォーとC・フランソワ作曲、G・ティボー作詩によるフレンチ・ポップスであり、ここで歌われるのは、人気シンガー、ポール・アンカが尊敬する先輩シナトラのために新たに自身で作詩の上、献呈したものである。以下はその厳密な直訳ではないが、作詞家・岩谷時子による日本語訳で、布施明などはこの訳詩で歌った)
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やがて私もこの世を去るだろう 長い歳月 私はしあわせに
この旅路を今日まで生きてきた いつも私のやり方で
心残りも少しはあるけれど 人がしなけりゃならないことならば
できる限りの力を出してきた いつも私のやり方で
あなたは見てきた 私がしたことを
嵐もおそれずひたすら歩いた いつも私のやり方で
人を愛して悩んだこともある 若い心ははげしい恋もした
だけど私は一度もしていない ただひきょうなまねだけは
ひとは皆いつかは この世を去るだろう
誰でも自由な心で暮らそう 私は私の道を行く |
ジャケット撮影はエド・スラッシャー。モノクロながら、当日のニューヨーク、マディスン・スクウェア・ガーデンというマンモス会場における得意絶頂のシナトラの表情を見事にとらえている。 |