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第062回 2007/10/19
吹奏楽の楽しみ 
─ 「フランス革命」とギャルド・レピュブリケーヌ

62

ギャルド・レピュブリケーヌ『フランス革命』
(邦題『ラ・マルセイエーズーフランス革命秘曲集』日CD CEW32‐6792)

R.ド・リール「ラ・マルセイエーズ」*
E.メユール「出発の歌」
J.F.ルジェール「フランス勝利の歌」
F.J.ゴセック「勝利の行進」「ヴォルテール讃歌」
C.カテル「軍隊行進曲5番」
L.ケルビーニ「若者の祭の歌」など 計23曲

* ミレイユ・マチュー(vo)
ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団ほか/ロジェ・ブートリーほか(指揮)

(録音:1988年7月パリ 発売 1989年)
仏EMI CDC7 49473 2


 この9月に偶々2回続けて吹奏楽によるコンサートに接する機会があった。一つは筆者の所属するオーディオ・クラブ主催のイデアル・ウィンド・アンサンブル、もう一つは佐渡裕指揮シエナ・ウィンド・オーケストラのコンサートで、こちらは熱烈な吹奏楽ファンであり研究家の富樫鉄火氏からお誘い頂いたものである。
 何れもプロの楽団であるが、恥ずかしながら筆者にとって日本で吹奏楽コンサートをライヴで聴くのは、今回が初めての体験であった。
 アメリカ滞在中は、とくに60年代は、それでも駐在地ニューヨークからさほどの距離ではないロチェスターでイーストマン・ウィンド・アンサンブルとか、ワシントンDCでは海兵隊バンドや空軍バンドを何回か聴く機会もあり、そのあまりに見事なテクニックに舌を巻いた記憶が未だに強く残っているのだが。
 それに対し当時の日本の、とくに管楽器演奏のレヴェルは未だしの感があり、N響当たりは別にして、管弦楽のコンサートで頓珍漢な音を出しては、全体の演奏を台無しにしていた元凶のほとんどが管楽器だったという印象があった。一流オーケストラの管楽器奏者でも、そんな状態だった時代である。
 しかし、時代は変わり、その間に40年以上の歳月が流れていたのである。今回、2つの演奏会を聴いて、これからは大いに認識を改めねばと決意を新たにしたところである。しかし、こうした世界的にも遜色ないレヴェルに達するまでには、筆舌に尽くしがたい関係諸兄姉のご苦労があったであろうことは想像に難くはない。
 しかもシエナの演奏後、じつに目を見張るような感動的なシーンがあった。それは聴衆の中から何百人という少年少女たちが何時果てるともなくゾロゾロと各々手に管楽器を持参してステージに上がり、佐渡氏の指揮の下、スーザの「星条旗よ永遠なれ」を全員で合奏したのである!フィナーレでは、汗まみれの指揮者がブンブン手を回すと、何百人という全ての若き奏者たちが全力で呼応するのだが、そのクライマックスの迫力たるや大変なものだった。こうなると上手下手は全く問題ではない。この吹奏楽の感動を通して、彼ら少年少女たちにより音楽が未来に向かって裾野を広げながら間違いなく大きく膨らんでいくのであろう。富樫氏の話だとシエナでは10年ほど前から連綿と続いている恒例の行事であり、今やその参加人数も増える一方だとのこと。全国的な吹奏楽人気の高まりとともに、何とも嬉しい話だった。

 前置きが少し長くなってしまったが、吹奏楽とは、一般には吹奏楽器(金管と木管)に、打楽器を加えた合奏音楽をいう。日本で吹奏楽団をブラスバンドということもあるが、ブラスとは金管楽器のことであり、厳密にいえば、ブラスバンドは金管楽器に木管楽器のうちサキソフォンのみを加えた構成で、その他の木管楽器は含まれない。
 弦楽器を使用しないため、繊細な深みのある表現には向かないという指摘もあるが、中々どうして、クラリネットを中心とする木管楽器の活躍により、かなりハイ・レヴェルな音楽表現も可能になっている。しかしそうはいっても強大な音量と華やかな音色こそが吹奏楽の最も魅力的な特徴であろう。その上、湿気や直射日光に強いため屋外での演奏にも適しており、歴史上も軍隊や屋外での式典やイヴェントで大いに活用されてきた。
 また比較的少人数で容易に編成が可能ということもあり、今では、学校、公民館、あるいは地方の音楽の普及・啓蒙にも大きな役割を果たしている。

 歴史的には、ラッパと笛と太鼓など簡単な打楽器、これらは数千年前から存在した人類にとって最も始源的な楽器であり、これらの集合体である吹奏楽に類いする音楽は、既に古代エジプトや古代ローマ以来、中世ヨーロッパを通じて屋外での儀式や軍隊で大いに用いられてきた。
 中でも特筆すべきは、中東における大帝国オスマン・トルコのメフテルハーネ(軍楽隊)の活躍であろう。14世紀後半から領土の拡張を始めて、1453年には東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルを陥落してここに遷都。17世紀後半には、地中海を制圧して中東を中心にアジアからヨーロッパに及ぶ一大帝国を築いた。その強大な原動力の一つがこの軍楽隊だったといわれる。このメフテルハーネは、平時は宮廷の儀式などで演奏したが、戦時になるとイェニチェリ(歩兵軍団)と共に戦場へと赴き、味方軍の士気高揚と敵軍への威嚇を行った。有名なモーツァルトやベートーヴェンの「トルコ行進曲」は、このトルコのメフテルと呼ばれる軍楽が原型だった。1826年、イェニチェリの廃止により、古いメフテルも消滅したが、最近では、イスタンプール(かつてのコンスタンチノーブル)にある軍事博物館専属の軍楽隊として復活しているということだ。
 またヨーロッパでは、18世紀プロイセンの王、フリードリッヒ大王(1740年即位のフリードリッヒ2世)による連隊バンドの創設が本格的な軍楽隊の始まりとされる。1763年、王の命令により各連隊に夫々所属する軍楽隊を設置し、戦場へも参加させた。彼は、自身多くのフルートのための協奏曲やソナタなども作曲したフルート演奏の名手であり、今のベルリン・フィルの前身ベルリン宮廷楽団を創設したり、歌劇場を造ったりしている。また大バッハは、「音楽の捧げ物」を王に献呈した。しかし、同時に軍楽隊の価値を誰より認識していた専制君主であり、オーストリア軍や、フランス・スペインの連合軍を破って現在のドイツの基礎を築いた。今でも演奏される「ホーヘンフリードベルグ行進曲」「モルヴィツ行進曲」なども王の作曲に成るものである。
 こうしたことから19世紀に入るや、陸軍のみならず海軍も含めてヨーロッパ各国では相次いで軍楽隊が生まれた。また警察、消防、学校にも楽隊が結成され、19世紀終わりころになると、演奏会用吹奏楽団も生まれた。代表的な楽団は、アメリカのスーザ・バンドだが、こうしたバンドは、とくに一般民衆に対し音楽的啓蒙を果たした。
 レパートリーとしては、古来有名な管弦楽を編曲したものが多いが、19世紀以降、吹奏楽用に独自に作曲されたものも増えている。団員の数や楽器構成は国や楽団によってもかなり異なるが、通常25名から100名程度。
代表的な楽団といえば、ギャルド・レピュブリケーヌ(共和国親衛隊)ギャルディアン・ド・パリ(パリ警視庁)(何れも仏)、イーストマン・ウィンド・アンサンブル、ゴールドマン・バンド、アメリカ海兵隊バンドや空軍バンド(以上、何れも米)、グレナディア・ガーズ(近衛兵軍楽隊)やロイヤル・マリーンズ(何れも英)、ブンデスウェル軍楽隊(国防軍司令部)(独)などが著名。
 日本では、陸上自衛隊中央音楽隊、東京消防庁音楽隊、東京警視庁音楽隊、東京佼成ウィンド・アンサンブル、大阪市音楽隊、シエナ・ウィンド・オーケストラなどであろうか。

 今回ここで取り上げる吹奏楽団は、歴史的にも古く、今でも世界最強バンドの一つとされる仏ギャルド・レピュブリケーヌによる1989年にフランス革命200年祭を記念して発売されたCD「フランス革命ーギャルド・レピュブリケーヌ」(邦題「ラ・マルセイエーズーフランス革命秘曲集」)である。
 17世紀以来、ルイ王朝による絶対専制君主制の下で当時世界でも音楽を含む最高の芸術の殿堂として君臨したヴェルサイユ宮殿を頂点とする王朝文化が革命により脆くも崩壊。大量に失業した宮廷音楽家たちの受け皿として ベルナール・サレット大尉は、革命の年の1789年に、早や45名編成の「パリ国民衛兵隊」軍楽隊を組織し、翌90年には作曲家ゴセックやその弟子カテルを迎えて70名編成の交響吹奏楽団を設立した。92年、この楽団が任務終了を理由に解散されるや、自ら校長となり楽員たちを教授とする「パリ国民衛兵隊」音楽学校を設立。ここを拠点に吹奏楽のレヴェルは飛躍的に向上するが、94年にはオペラ歌手養成学校を吸収して改称し、95年には、以降フランスにおけるクラシック音楽の中核的役割を果たすことになるパリ音楽院へと発展した。
 このCDで聴かれる作品を作曲した L.・ケルビーニ、J.・F.・ルジェール、E・メユール(以上いずれも作曲)、F・ディヴィエンヌ(フルート)、F・デュヴェルノア(ホルン)、M・ジュパウエル(オーボエ)J・D・ベール(トランペット)らは何れもここで教鞭をとった。1848年、2月革命の年に、この音楽院を卒業した管楽器奏者によって設立されたのが、ギャルド・レピュブリケーヌだった。従って、ギャルドの沿革を辿れば、フランス革命へと行き着くことになる。当初は、騎馬ファンファーレ隊と呼ばれる12名による金管と打楽器のみの編成だったが、その後、木管さらには弦楽器をも加えて今や120名の大規模な楽員で構成されている。また、その名の通り、共和国の首都パリの見張り番として大統領官邸を初め、政府機関、上院・下院、最高裁の警護に当たることが本来の任務であるが、同時に数々の記念式典や行事も担当してきた。代々この式典や行事で演奏したのが、ギャルド・レピュブリケーヌ軍楽隊だった。大戦中は、前線で多くの団員が戦死者となり、またナチス占領下には多くが地下運動に参加し犠牲となった。
 このギャルド、単に歴史や伝統の古さだけではなく、1867年、パリ万博で行われた国際軍楽隊コンクールでは見事優勝し、大統領レイモン・ポワンカレは、「共和国フランスの宝石」と呼び、フランス最大の作曲家 ドビュッシーはその演奏を絶賛した。今でも8割以上が音楽院首席卒業者で構成され、しかも厳しいトレーニングと切磋琢磨により極めてハイ・レヴェルなテクニックとアンサンブルを維持している。日本にも1961年以降、何回も来日しており、熱狂的なギャルド・ファンは多い。
 このCDでは、「ラ・マルセイエーズ」以下、上記の作曲家らによる革命直後に作られた作品、例えば、ゴセックの「勝利の行進」「ヴォルテール讃歌」「軍楽隊のための交響曲」「葬送行進曲」、カテルの「軍隊行進曲5番」、ケルビーニの「若者の祭の歌」、ルジェールの「フランス勝利の歌」、メユールの「出発の歌」、また管楽器奏者ディヴィエンヌによる「管楽器のための序曲」、ベール「帝国軍のラッパ手の行進」などが含まれる。「ラ・マルセイエーズ」を唄うのは、「ピアフの再来」といわれるミレイユ・マチュー、指揮は1973年、第9代楽長に就任したロジェ・ブートリー大佐で、彼はローマ音楽賞グランプリ1位入賞の実績をもつ。演奏は,国歌以下、当然とはいえ、流石どの曲も全く手慣れたものでほぼ完璧といってよく、吹奏楽の醍醐味を大いに満喫させてくれるとともに、人民の自由・平等・博愛といった美名の背後に隠れがちな「ラ・マルセイエーズ」でも歌われる革命には付きものの血で血を洗う残虐さ、また「退却」とか「葬送」の音楽をも含む「フランス革命」のリアルな側面も同時に味わせてくれるCDでもある。
 ちなみに、この「ラ・マルセイエーズ」は、1792年、ライン河でプロイセンと境を接する国境の町ストラスブールに駐屯していた工兵隊大尉ルジェ・ド・リールにより、本来はライン対岸のプロイセン軍と対峙する味方軍を勇気づけるため「ライン方面軍の歌」として作られたもの。ところが同年7月14日、パリでの独立記念式典の際、何故か最も過激といわれたマルセイユからの義勇軍によって歌われて有名になり、以降この曲名で知られるようになった。1795年には国歌に制定されたが、一番戸惑ったのは作曲者本人ではなかったろうか。

 ジャケットは、革命の年、1789年に組織された”パリの見張り番”「パリ国民衛兵隊」そのものの部分画で、レオン・コニエ(1792)により描かれたもの。どこかレンブラントの名作「夜警」を想起させる。