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第061回 2007/10/19
「ブルースの女帝」ベッシー・スミスの絶唱
「セントルイス・ブルース」

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ベッシー・スミス 『ザ・ベッシー・スミス・ストーリー』(第1巻)

ダウン・ハーテッド・ブルース(C・ウイリアムス(p))/ティケット・エイジェント・イーズ・ユア・ウインドウ・ダウン(R・ロビンズ(v)I.ジョンズ(p))/監獄ブルース(I.ジョンズ(p))/セント・ルイス・ブルース/レックレス・ブルース/ソビン・ハーテッド・ブルース/コールド・イン・ハンド・ブルースなど5曲(何れも L.アームストロング(tp)F.ロングショー(p))/ケアレス・ラヴ/ナッシュヴィル・ウーマンズ・ブルース/J.C.ホームズ・ブルースなど4曲(何れも L.アームストロング(tp)C.グリーン(tb)F.ロングショー(p))ベッシー・スミス(vo) 計12曲

コロムビア・レコード  CL855
(録音:1923年2月〜25年5月)


 今やジャズやロック、更にはヒップホップとかラップ・ミュージックといったサウンドのルーツと誰しもが認めるブルース(発音はブルーズが正しい)は、元々アメリカ南部に住む黒人たちの音楽にすぎなかった。奴隷解放以降も続く差別化された厳しい生活の中から黒人たちによって吐き出される感情をそのまま詩とメロディに託して語られ歌われてきた音楽形式であり、19世紀後半、黒人霊歌や労働歌などから発展し、20世紀初めころに一応完成されたといわれる。ギターによる弾き語りが多かったが、ブルース形式と呼ばれる12小節のA・A・B形式をワン・コーラスとする単純な詩型や特有なコード進行に特徴があった。1930年代以降は、都市部の黒人層にも広く普及し、エレキやドラムスが使用されるようになったが、60年代以降、とくにロックに多大な影響を与えた。
 アメリカの黒人詩人、ラングストン・ヒューズ流にいえば、ブルースとは、貧困・孤独・失恋などをテーマにした単純でダイレクトでしかも美しい黒人による民衆の歌ということになろうか。
 そしてこのブルースを語る場合、どうしても忘れられない存在が、「ブルースの女帝(Empress of the Blues)」と呼ばれた偉大なシンガー、ベッシー・スミス(1894?‐1937)だった。
 1894年(これは結婚届けに記された生年だが、一説には1895生まれとする説もあり、実際のところはその生い立ちも含め不明)テネシー州チャタヌーガの黒人スラム街で7人の子の1人として生まれる。このテネシー川沿いに位置したチャタヌーガという町は、グレン・ミラー楽団の名曲「チャタヌーガ・チューチュー」(汽笛の響きをあらわす擬音)でも有名だが、1880年にアメリカで最初の旅客列車がこの町とオハイオ州シンシナティ間で開通した記念すべき鉄道の町でもあった。当然のことながら子供のころから汽車が大好きだったベッシー、後に歌手として成功するや、巡業のため豪華な客用車両を特注購入してこの車両でバンドの関係者共々各地を移動した。
 父はバプティスト教会の貧しい非常勤牧師だったが、生後直ぐに他界。8歳のときに母も死去。ベッシーと残された子供たちは長姉のヴァイオラに育てられる。赤貧洗うがごとき状態で学校にも行けず、ベッシーは9歳になるや、乞食同然に道ばたに立って歌を歌い小銭を稼いだ。大柄で声量もあり、生まれつき歌も上手かったので、彼女の稼ぎはそこそこ家計の足しになったという。(以降、彼女が死ぬまで兄姉やその家族に対して仕送りを続けることになる)やがて兄のクラーレンスは、モーゼス・ストークス巡業団にダンサー兼コメディアンとして雇われるが、1912年、ベッシーも彼の手引きでオーディションを受け首尾よく兄と同じ巡業団に入る。彼女にとってラッキーだったのは、ここには「ブルースの母」として有名なマー・レイニーと夫ウイルが所属していたことである。やがてこの2人が自身の巡業団ラビット・フット・ミンストレルを発足させたときには、ベッシーも同行した。マー・レイニーには子がいなかったので、ベッシーを我が子のように可愛がった。一般的にはベッシーの優れた歌唱力は天性のものとされたが、こうした環境からブルースのパイオニア、マー・レイニーの影響も大いにあったといえよう。

 当時の時代背景としては、1917年、白人によるジャズバンド「オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンド」により史上最初のジャズ・レコードが発売。黒人の音楽ジャズは アメリカの白人社会でも認知されるようになる。
 1920年には、憲法修正により、有名な禁酒法が施行されて、アルコールの製造・発売が全面禁止となる。ギャングが支配するシカゴやカンザス・シティのアンダーグラウンドを中心にジャズの発祥地ニューオリンズから大挙移動したミュージシャンたちによりジャズはこれら中西部、さらにはニューヨークなど東部地域で大流行となる。
 他方、南部を中心に地方巡業するベッシー、やがて彼女は自身のショーをもち、主に黒人たちの間で圧倒的人気を獲得しながら着実に勢力範囲を広げていった。
 1923年、コロムビア・レコードのディレクター、フランク・ウォーカーが、アラバマ州セルマで彼女の歌を聴いて大いに興味をもち、レコード化を決意。録音のために作曲家兼ピアニスト、クラレンス・ウィリアムスを派遣してベッシーをニューヨークに連れてくる。
 同年2月、こうして最初のセッションで録音されたのが、今回取り上げたレコードにも含まれる「ダウン・ハーテッド・ブルース」だった。(オリジナルは当然SP盤で、B面は「ガルフ・コースト・ブルース」)
 しかも、このレコード、全米で大いに注目されたが、中でも南部だけではなく北部も含めた黒人層の間で爆発的人気となり、いきなり78万枚を売り上げた。
 時期的にも、圧倒的な声量と歌唱技術の巧みさにおいて1924〜29年の期間がベッシーにとってピークといわれ、相次いで彼女のレコードが発売される。ルイ・アームストロング、ジョー・スミス、ドン・レッドマン、ジェイムズ・P・ジョンスン、チャーリー・グリーン、フレッチャー・ヘンダースンらが引き続き彼女との録音セッションに参加した。この期間だけでも彼女の歌ったレコードの売り上げ総数は400万枚を超えたといわれる。
 今回取り上げたレコードには、上記以外にも、同年録音のアーヴィング・ジョンズ(ピアノ)らによる「監獄ブルース」などや、1925年に全盛期の”サッチモ”・ルイ・アームストロングと共演した「セントルイス・ブルース」「レックレス・ブルース」「ケアレス・ラヴ」など名作が含まれるが、「ケアレス・ラヴ」では、ベッシーとルイ両者の絶妙なコラボレーションが素晴らしい。とても電気録音以前に録られたアクースティック録音によるものとは信じがたいほどの迫力である。
 他方、私生活でも 以前より付き合いのあったフィラデルフィアのポリスマン、ジャック・ジーと目出たく結婚し、彼女の人生における最良の時期でもあった。
 このころの彼女のブルースにおけるライヴァルたち、アルバータ・ハンターは、ロンドンでポール・ロブスンとともに「ショーボート」で主演。エセル・ウォーターズは、ロンドンのパレイディアム劇場で何れも成功を収めていた。
 そして1929年、ニューヨークのウォール街の暴落に端を発した大恐慌は、瞬く間にアメリカを初めとする植民地を含む全世界に波及。倒産などによる鉱工業生産の大幅低下や既に疲弊していた農業生産をさらに悪化させ、都市労働者や農民、植民地や属領の住民の間に膨大な失業者を生み出しながら、社会不安を増大させていった。
 ベッシーにとって私生活では結婚後もトラブルの多かったジャックと離婚、博打や荒れた生活とお決まりの酒への依存、声の衰えとともに本業のヴォードヴィルも衰退。そして31年には、7年間続いたコロムビアとの契約の解約通知を受けることになる。ベッシーは、既にコロムビアとの間で160枚以上のレコードを作っていたが・・・。
 1935年、世の中も漸く落着きを取り戻し、ベッシーから強い影響を受けた後輩たち、ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドが相次いでニューヨーク、ハーレムのアポロ劇場で公演。その後の輝かしい成功が約束され、巣立っていく。ベッシーにとって、かつての圧倒的人気は夢のまた夢であったが、それでもジャズやフォークの愛好家たちの間では、まだまだ人気はあったし、私生活でも、リチャード・モーガンと再婚し、懸命に立て直しを計った。かつて禁酒法時代に財をなしたというリチャードは、ベッシーの賛美者であり、死ぬまで何かとベッシーを支え続けたのである。(ちなみに彼は著名なヴァイブ奏者ライオネル・ハンプトンの叔父に当たる)
 しかし、そんな矢先の1937年9月26日、日曜日の午前3時にベッシーは、メンフィス南の国道でトラックとの衝突事故で他界してしまう。享年40余歳だった。この死を巡っては、エドワード・オルビーの戯曲「ベッシー・スミスの死」(1959年発表)で有名になったが、黒人であるが故に病院での緊急治療を拒絶され、出血多量で死んだという説が一般的に流布された。当時の事情としてはヤッパリと思わせる話ではあるが、運転をしていた夫のリチャードの証言、偶々事故現場でベッシーを応急治療した白人医師の証言、病院の証言などが夫々食い違っており、全貌が明らかにならないうちに関係者が亡くなってしまった現在では真相は謎のままである。ちょうど今から70年前の悲しい事件だった。

 当時、ブルース界でライヴァルの一人だったアルバータ・ハンターのベッシー評「ベッシーが一番すごい歌手だった。嗄れた大きい声だったけれど。ある種の涙があった、・・いや、涙じゃない。ベッシーの歌い方には、心の苦しみがあらわれていた」(「ブルースの女王ーベッシー・スミス」よりイレイン・ファインスタイン著、荒このみ訳 山口書店 69年発行)ジャズ・クラリネットの巨人シドニー・ベシェも彼女について「傷ついた心をもっていた。・・・年がら年中、体の中に痛みをかかえ、また、これから苦しみを発見しに行こうとしていた」更に「偉大なる人間は、(周りの人や音楽の)あらゆる影響を受け入れながら、自分の内にあるものを与え、表現する」(前掲書に掲載)と述べている。
 またこのレコードに長文のライナーノーツを書いている評論家ジョージ・アヴァキャンは、「完璧なヴォーカル・コントロールと、巨大で突き抜けるような声は力強さ、時には荒々らしさを伴っており、しかも抗しがたい魅力と美しさに溢れていた」と述べ、彼女の死後、評論家ジョン・ハモンドは「私の考えるところ、ベッシー・スミスはアメリカのジャズが生み出した最も偉大なアーティストである。事実、彼女の芸術が、ジャズという範疇の域を超えなかったという確信は、私にはない。少なくとも彼女がそうした存在の一人であることは確かだし、自身の全人格を完全に音楽に投入することが出来た稀なるアーティストだった」と追悼している。

 最後にここでも歌われるブルースの典型として、W.C.ハンディ作詩・作曲による「セント・ルイス・ブルース」を掲載したい。1914年に作られたもので、彼が放浪中のセント・ルイスで会った落ちぶれた女の呟きをもとに書いたといわれる。筆者は、数多あるこの名曲の録音の中でも、ベッシー以上に鬼気迫る哀感を込めた絶唱を知らない。ルイ・アームストロングによるサポートも絶品であった。

 

「夕日が沈むのを見るのは嫌  夕日が沈むのを見るのは嫌
見てるとこれがあたしの最期なんだって気がしてくる

明日も今日みたいな気分のままなら  明日も今日みたいな気分のままなら
荷物をまとめて出て行こう

セント・ルイスの女はダイヤの指輪をはめ
エプロンの紐で男を引っぱりまわす

白粉とお店でやってもらった  この髪型がなかったら
あたしの愛する男はどこにも行きやしない  どこにも

セント・ルイスのブルースにやられたのさ  気分はもうどん底
あいつの心は海に投げこんだ石みたい 
じゃなきゃあたしを捨ててくわけがない」
奥田祐士訳(マーテイン・スコセッシ監修「ザ・ブルース」白夜書房 所収)

 ジャケットは、スタンレー/モノグラムとクレディットされているが、右下のモノクロの写真とともに、よく見ると画面全体にもぼんやりとベッシーの顔がまるでゴーストのように浮かび上がる。地味ながら、タイポの細部まで行き届いた初期米コロムビア盤の典型的デザインの一枚。