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第051回 2007/07/1
「ドアーズ」のジム・モリスンによる
絶望と狂気の「まぼろしの世界」

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米エレクトラ  EKS-74014
ドアーズ「まぼろしの世界」(STRANGE DAYS)

A面曲目:ストレンジ・デイズ/迷子の少女/ラヴ・ミー・トゥ・タイムズ/アンハッピー・ガール/放牧地帯/月光のドライブ
B面曲目:まぼろしの世界/マイ・アイズ・ハヴ・スィーン・ユー/おぼろな顔/音楽が終わったら

ジム・モリスン(vo)、レイ・マンザレック(key & marimba)、ロビー・クリーガー(g)、ジョン・デンズモア(ds)
(1967年10月発売)


 ジム・モリスン。ボーカリスト、詩人、ソングライター。1943年12月、合衆国フロリダ生まれ。父は、厳格な海軍将校、ジムは、幼少のころから父に対しては反抗的だったが、学業成績は良く、本もよく読んだ。ニーチェ、詩では、ホイットマン、ディラン・トーマス、ビーハンなどを愛読。高校卒業後、フロリダ州立大学にすすみ哲学や詩作に熱中するが、64年、家族の反対を押し切ってUCLAの映画科へ編入。ここでレイ・マンザレックと出会って、やがて音楽にも興味をもつようになり、バンドを結成する。メンバーは、最終的にレイのキーボードとジムのヴォーカルに、ギターのロビー・クリーガー、ドラムスがジョン・デンズモアが加わって65年、正式に「ドアーズ」が発足した。(事実上のリーダーは、当初からレイだった)バンド名は、ジムの命名で、当時、ヒッピーのバイブル的存在だったオールダス・ハックスレーの幻覚作品「知覚の扉」(The Doors of Perception)から取られた。ジムは大学を中退、ヒッピーのたまり場ヴェニス・ビーチに移住したが、この頃からドラッグ依存が少しづつ酷くなる。
 グループのほうは、ロスのライブハウスを中心に順調に人気バンドへと駆け上がっていった。ビートニクなジムのヴォーカルを中心に、クラシック出身ながらブルージーでユニークなオルガンを弾きながら、ベース・パートも受け持つレイ(このバンドには従ってベースがいない)、フラメンコ出身のギタリスト、ロビー、ブラスバンドからジャズを経てロック・ドラマーになったジョン、この4人によるグループは、シンプルながら力強く他のバンドにはない独特の響きがあった。
 当時は、正にヒッピーの全盛時代、ジムがどの程度このムーヴメントに共鳴していたかは不明だが、少なくともラヴ&ピース一色の中に彼の醸しだす雰囲気は異様でもっと暗くて重い。またこの時期はヴェトナム戦争のピークとも重なり、ジムは、反戦歌やプロテスト・ソングを盛んに書いてライヴで演奏している。
 1967年に、エレクトラと契約。同年1月、ファースト・アルバム「ドアーズ」がリリース。「ハートに火をつけて(LIGHT MY FIRE)」がシングル・カットされ、突然ヒット・チャートのナンバー・ワンとなり、一躍 超人気グループに伸し上がった。
 この衝撃的デビュー作に続くのが、同年10月に発売された、この「まぼろしの世界(STRANGE DAYS)」である。デビュー作との優劣がいつも問題にされるが、ジム・モリスンのカリスマ性とともにグループのまとまりも一層強まり、サイケデリック・ロックとしての華やかさや完成度においてより高い域に到達しているし、エフェクターやテープの逆回しなど様々な音楽実験や、スローなナンバーを加えるなど芸域にも広がりをみせている。全米ヒットチャート第3位。シングルでは「まぼろしの世界」12位、「ラヴ・ミー・トゥー・タイムズ」25位となったが、むしろ聴きものは、「放牧地帯」と「音楽が終わったら」の2つであろう。ジムの本音が存分に詩のなかに盛り込まれたヴォーカルとも語りともつかぬ重く陰鬱で激しく、まるで呪文のごとき朗唱である。
 そして、このジャケットの何たるユニークさ。街頭路地裏で演じられる旅芸人一座による異様で幻のような光景には、この音楽に内在する異常性と幻想性がそのまま投影されているようだ。良く見ると右上部の壁に「ドアーズ」のポスターと「ストレンジ・デイズ」のタスキ掛けの文字が見える。ウイリアム・ハーヴェイのコンセプトに基づいたジョエル・ブロズスキーの撮影によるジャケットである。
 次いで「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」や「タッチ・ミー」などのヒット曲が続くが、69年3月にはジムが公然わいせつ罪で逮捕され、彼を巡るセンセーションはピークに達する。以来反社会的存在として公演活動は制限され、結局、70年12月をもって一切のライブを停止。ジムの麻薬やアルコールへの依存度も益々激しくなる。そんな中、1971年、ジムの再起をかけてアルバム「LAウーマン」が制作された。(結局このアルバムがジムにとって遺作となり、バンド「ドアーズ」も翌72年活動を停止した)直後の同年3月に思索と著作を目的にジムは恋人パメラと共にパリへ移住する。
 71年7月3日、パリのアパルトマンのバスタブでジム・モリスン、謎の事故死。死因は公式には心不全とされたが、麻薬の過剰服用ではないかとも言われ、真相は依然不明のままである。27歳の短い生涯だった。その遺体は、ショパン、モディリアーニ、エデイット・ピアフらの眠るパリ東部のペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。ちなみに、この頃ロック界では、70年にジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらが何れも麻薬がらみで相次いで死去し、大きな社会問題にもなった。この3人、何れも享年27歳というのも不思議な偶然の一致である。

 ジムについて何時も語られるのは、強烈なセックス・シンボルとしての魅力とその詩作の素晴らしさ、そして絶望感による狂気と破滅的行動の数々であろう。精神医によれば、この絶望感とは、生きる上で必要な孤独感とうまくつき合う資質に欠ける一種の人格障害現象だそうである。底なしの絶望感を彼は自暴自棄の生活とロックの創造活動にぶっつけた。時には美しい詩情へと花を咲かせることもあったが、スーパースターとして圧倒的人気を誇る自身と、アーティストとして厳しく自己表現に邁進したい自身との葛藤が終生付き纏った。そして、あまりに早すぎる破滅と死。

 彼もレイも、UCLA映画科では、ハリウッドの巨匠、フランシス・コッポラ監督の先輩に当たるそうで、レイの誘いでロックの世界に入ってしまったが、かつて映画を志した者として映画に対する興味は生涯持ち続けていたようである。
 現に彼ほどライブにおいて舞台演出とかその効果に意を用いたミュージシャンも少なかったようだし、彼のトレード・マークみたいな扇情的なセックス・アピールにしてもある程度演出上計算されたものだったに違いない。
 しかも映画制作の場合、その本質は台本にせよ演出にせよ、まず事象を冷徹に客観化する作業から始めなければならない。そこから「まぼろしの世界」が始まり、最後は「ジ・エンド」として何らかの結末に到達する。そして人々は、終幕とともに「まぼろし」から現実の世界へと立ち戻るのである。
 波乱に満ちた時代の寵児ジムの人生を顧みると、種々のプロセスから演奏活動を経て破滅へと至る過程を、もう一人のジムがじっと見つめていたようにも思われる。台本を書き演出をするもう一人の自身がいた。では「ジ・エンド」のあと、もう一人のジムは、どうなったのか。実際、埋葬に立ち会った者はパメラ以外は居らず(そのパメラも数年後死去)、しかも死の何ヶ月か前からジム自身、バンドの仲間にはアフリカへの逃避行を何回も暗示していたという。初めてパリに墓詣でに訪れたバンド仲間のジョンは、墓のサイズがジムには小さすぎるとコメントした。彼の死は、未だに謎に包まれているが、そうしたプロット自体、予め彼自身の台本には組まれていたのではないか。しかし、このアルバムを改めて聴いてみて、そろそろ還暦を何歳か過ぎたサンタクロースみたいに白髭を蓄えたジムがアフリカのジャングルにある王宮のような場所でタバコか麻薬を燻らせている姿を思い浮かべながら、その違和感に我ながら思わず可笑しくなった。
やはりジムにとり「まぼろしの世界」は即現実だったのであろう・・・。

 話は変わって、今年(2007)は、この「ドアーズ」がデビュー盤発売後、40年周年ということで、レイ・マンザレックが来日。「大人のロック!」誌7月号のインタビューの最後に読者に対するメッセージとして「酒やタバコの飲み過ぎに気をつけて、精々長生きをし人生をエンジョイして欲しい」といった趣旨のことを述べていた。平凡な常識的な言葉ではあるが、学生時代から最後まで、あのジムとつき合った者のみが言える、けだし卓見というべきかもしれない。