作曲家山田耕筰が日本の洋楽黎明期において、その導入に果たした功績は絶大であり、それも本来の世界的水準にある歌曲、交響曲、オペラなど作曲分野に止まらず、活動の範囲は交響楽団や合唱団の創設、さらには歌劇運動に至るまで実に多方面にわたっている。先年他界された今井正監督の群馬交響楽団創立時の苦難を描いた映画「ここに泉あり」にも自ら出演されたが、単に導入だけではなく、終生その普及・発展にも大いに尽力された。昨年(2006年)は、同氏の生誕120周年ということもあり、改めてその偉大な業績が全般的に見直されたということは、耕筰ファンの一人として大変慶ばしい限りであるが。
以下、改めて「自伝 若き日の狂詩曲」(日本図書センター発行)より巻末に掲載の年譜の一部を引用させていただく。因みに、この自伝、凡そ堅物とはいえない氏の奔放かつ情熱的な側面も描かれていて読物としても大変に面白かった。
1886年(明治19年)東京にて出生。父は、キリスト教伝道にたずさわる医師だった。
1904年、東京音楽学校予科入学。翌年、本科声楽部に進級。08年、本科卒業。研究科に進む。09年、自作オラトリオ「誓の星」が上演。10年、岩崎小弥太の後援でドイツ留学。ベルリン高等音楽学校にて作曲を専攻。マックス・ブルッフ、カルル・ヴォルフに師事する。12年、日本人初の交響曲「かちどきと平和」及びオペラ「墜ちたる天女」(坪内逍遥原作)などを作曲。13年、留学最後の年、ピアノ5重奏曲「婚姻の響き」、交響詩「暗い扉」、「曼荼羅の華」を作曲。14年、自作による日本最初の交響楽演奏会を開催。翌15年には、同メンバーで東京フィルハーモニー交響楽団を組織し、交響楽運動の基礎を築く。18年、カーネギーホールで自作の管弦楽曲による第1回演奏会を開催する。20年、日本楽劇協会を創立し、オペラ運動を開始。22年6月、東京市民合唱団を創設。9月、北原白秋と雑誌「詩と音楽」を創刊。25年5月、「からたちの花」を発表・出版。9月、N響の前身である日本交響楽協会を創立。第1回演奏会を開催。27年、日本初のトーキー映画「黎明」の映画音楽を担当。36年、仏からの委嘱作品オペラ「あやめ」により、仏レジオン・ドヌール章を受ける。
40年、オペラ「夜明け」(黒船)初演。朝日文化賞を受ける。50年、第1回放送文化賞を受賞。51年、「山田耕筰賞」を設立。第1回同賞は「夕鶴」に贈られる。56年、文化勲章を受章。1965年(昭和40年)12月29日、心筋梗塞のため死去。(享年 79歳)
こう見てくると、氏の業績の中にいかに”本邦初”が多いことか、まさに音楽界のパイオニアという感じがするが、中でも氏の最も得意とした作曲分野のうちの歌曲・童謡を中心に、ここでは同じく行動を共にされた大戦前の日本人歌手たちによる歌曲集を聴いてみたい。
今回取り上げたのは、日本コロムビアによる”日本の名歌 世界の名歌シリーズ”のうち『この道』であるが、本アルバム全4面中3面が山田耕筰による歌曲・童謡で占められる。
即ち、アルバム・タイトルにもなっている「この道」以下、「からたちの花」「待ちぼうけ」「かやの木山の」「鐘が鳴ります」「かえろかえろ」「あの子のお家」「ペィチカ」など 計22曲が氏の作曲。この内、北原白秋の詩になるものが14曲、また山田作品中、11曲が「我等がテナー」藤原義江によって歌われる。(「松島音頭」は三浦環、「阿蘭陀船」「六騎」「長持歌」はベルトラメリー能子など)この「白秋-耕筰-義江」の歌曲ラインを評論家、福原信夫は戦前・戦後を通じて日本歌曲史の頂点と位置付けられた。
また山田歌曲の特徴は、弟子でもある団伊玖麿も述べておられるように、平易で美しい日本語のリズムや抑揚、即ちその語感を生かし忠実に表現していること、日本語の詩のなかにある音楽性を抽出して定着させていることであろう。
付録の第4面には、山田作品以外の6曲が収録されるが、弘田竜太郎作曲の「叱られて」や「浜千鳥」以下5曲を三浦環が歌い、最後の古謡「江戸子守唄」を、関屋敏子が自ら作曲し歌っている。
このアルバムは、1984年に発売されたものだが、黎明期のレヴェルを示す大変に貴重な音源と云える。
以下、本アルバムで歌っている戦前の日本が生んだ代表的歌手につき略述しておきたい。
藤原義江(1898−1976)
イギリス人を父、日本人を母に大阪で私生児として出生。その後、母とともに地方を転々とするが新国劇を経由して、1918年浅草オペラに出演し、人気を博す。20年、本格的勉強を志してイタリアへ留学し、ミラノでガラッシ女史に師事。英国でリサイタル後、アメリカ経由で23年帰国。30年「椿姫」で歌舞伎座デビュー。このときの指揮が山田耕筰、相手役のヴィオレッタは関屋敏子だった。31〜32年、再度イタリア留学の後、34年、本邦最初の歌劇団、藤原歌劇団を創設。「アイーダ」「タンホイザー」「ドン・ジョヴァンニ」「マノン」など次々に日本初演。40年には耕作の「夜明け」を初演する。36年シカゴ・オペラでマスカーニの「イリス」、ニューヨーク・シテイ・オペラで「蝶々夫人」などの海外出演も果たした。64年に引退。「我等がテナー」の愛称で、全盛期は「ビロードの声」とか「藤原節」(こちらは必ずしも褒め言葉ではない)とよばれて絶大な人気を誇り、日本オペラの育成・発展に指導的役割を果たした。また上記の通り、歌曲においても偉大な功績を残している。
三浦環(1884−1946)
1900−04年、東京音楽学校在学。03年、日本最初のオペラ公演「オルフェオとエウリディーチェ」のエウリディーチェを歌ってデビュー。12年からドイツ留学。15年、ロンドンで「蝶々夫人」のタイトル・ロールをビーチャム指揮で歌い、これが空前の当り役となって、以来 同役を世界各国で2000回以上歌った。18年にはシカゴ・オペラで天下のテナー、カルーソーとも共演。20年に作曲者のプッチーニと対面し「我が夢」と賞賛された。まさに「蝶々夫人」とともに、戦前の日本を代表する世界的ソプラノとなった。36年に帰国し、戦争中は山中湖畔に疎開、終戦直後の46年に死去。享年62歳。
関屋敏子(1904−1941)
三浦環、サルコリに師事、東京音楽学校中退。25年、東京でデビュー。その後、イタリア・ボローニャ音楽院に留学。スカラ座のオーディションにも合格し、イタリア各地でヴィオレッタ、ルチアなどを歌う。彼女のコロラトゥーラはイタリアでも評判となった。帰国後、30年には、上記の通り藤原義江と「椿姫」で共演。37年に自作のオペラ「お夏狂乱」を主演。太平洋戦争勃発寸前の41年11月23日、自ら命を断った。享年37歳。芸術上の行き詰りとも生活上の行き詰りとも言われたが、やがてそのニュースも大戦の騒音の中にかき消されてしまった・・・
ベルトラメリー能子(よしこ)(1903−1973)
2回のイタリー留学。23年、イタリアのナポリでデビュー後、1931年 東京デビュー。31年、近衛秀麿指揮、37年、斉藤秀雄指揮の新交響楽団と共演。透き通るような美声でイタリア・ベルカントの美しさを当時の日本に知らしめた功労者だった。
こうした黎明期のことを調べてみると、日本に洋楽が根付いて以来、まだ100年そこそこの短い歴史を知って驚かされるとともに、山田耕筰を初めとする幾多の先達たちの想像を絶する努力の賜物であることを改めて痛感させられるのである。
ジャケット写真は丹渓こと故前田真三(1922〜1998)によるイメージ写真。この表表紙の「落葉」のみならず、裏表紙や中身リーフレットの写真を含め、いずれも詩情あふれる肌理の細かな風景写真が掲載され、いかにも白秋-耕筰中心の歌曲集にピッタリという感じがする。 |