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第004回 2005/12/18
政治と芸術─ショスタコーヴィッチの場合

DISC4

米コロムビア MS 6115/ML 5445
ドミトリー・ショスタコーヴィッチ
『交響曲 第5番』

ニューヨークフィル/レナード・バーンスタイン(指揮)
(録音:1959年 ニューヨーク)


 革命後のソ連が生んだ20世紀最高の交響曲作家、ショスタコーヴィッチが亡くなったのは、1975年、従って今年(2005)は、死後30周年に当るし、彼は1906年の生まれだから、来年は生誕100年ということにもなる。ソ連崩壊後、今年で15年目、こうした機会に、ショスタコーヴィッチに関する新事実も次々に明らかにされることであろう。とくに1930年代、スターリンが独裁者となって以来、その死によって終了する1953年までの暗黒時代は、社会主義リアリズムを標榜し芸術や音楽を最大限政治的プロパガンダに利用しようとする強大なスターリン体制といかに折り合いをつけながら自己主張し、しかも生き延びるかは、独りショスタコーヴィッチに限らず、全ての芸術家にとって直面しなければならない最大の問題だった。政治と音楽、とくに巨頭ショスタコーヴィッチを廻っての議論は当分尽きることはなさそうである。

 父は、著明な科学者で、母はピアニスト、ペテルブルグの裕福なインテリの家庭に生まれたショスタコーヴィッチは、ペテルブルグ音楽院に入学し、作曲とピアノを専攻。ピアノは、名教師ニコラーエフの弟子で、第1回ショパン・コンクールにも出場したが、卒業後は作曲を志し、気鋭の前衛作曲家として交響曲やオペラの分野で華々しい活躍をすることになる。
 そのピークがオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」だった。34年モスクワとレニングラードで同時に初演され、いずれも大成功をおさめてロングランを重ね、ニューヨーク(35年)初め世界中で上演されて絶賛を受けるが、36年1月プラウダ紙にて、意外にもこのオペラは「音楽ではなくデタラメ」と烙印がおされる。取り敢えずは、体制側からの挨拶代わりのジャブといったところであろうか。
 洋々たる成功を夢見て、若干有頂天になっていた若き作曲家にとっては充分すぎるほど大きな衝撃であった。作曲活動を一切止めて真剣に自殺すら考えたということだが、ここで一呼吸おくところが、この天才のしたたかさであろう。

 1937年4月から7月までの3ヶ月間で一気に書き上げられたのが、ここで取り上げる「革命」と呼ばれる第5交響曲だった。 初演は同年 ソヴィエト革命20周年記念日に合わせて、10月、かのムラヴィンスキーの指揮で行われ、稀に見る大成功を収めた。彼は、見事に名誉を回復し、同年、レニングラード音楽院の教授にも迎えられる。じつは、これは第1ラウンドにすぎず、その後、当局との間で幾度か攻防が繰り広げられることになるのだが、スペースの関係でここでは省略する。
 その“妥協の産物”と云われた第5交響曲「革命」を取り上げてみたい。 しかも、このLPの演奏は、1959年、時の大統領アイゼンハワーの文化使節として、アメリカの指揮者バーンスタインが手兵ニューヨーク・フィルとともに、ソ連への初めての演奏旅行直後の輝かしき凱旋録音からのものである。時あたかもスターリン死後、56年には早やスターリン批判が開始、58年以降はフルシチョフの時代となり、東西両陣営の関係も冷戦からようやく雪解けムードに入ったころだった。 こうした中、レニーとニューヨーク・フィルは、モスクワとレニングラードで熱狂的に歓迎された。中でも、このショスタコーヴィッチの第5番は、何回か取り上げられ、最後のソ連公演となった9月11日のモスクワでも目玉作品となったものだが、会場に居合わせた作曲者自身も感激のあまり客席から駆け上がり、バーンスタインを抱擁した。

 1979年、ニューヨークで発刊の書ヴォルコフ編「ショスタコーヴィッチの証言」(水野忠夫訳 中公文庫)によれば、作曲者の証言として、この曲の初演者であり、当然最大の理解者と思われたムラヴィンスキーは、まるでこの曲の本質、とくに終楽章の「歓喜」が体制側から強制された見せかけのものであることを全く理解していないと断じている。確かに、ムラヴィンスキー以下、ロシアの指揮者たちは伝統的に、終楽章のコーダを堂々たるテンポで威厳にみちた勝利への歓喜として演奏している。
 これに対し、バーンスタインの場合は、(当演奏もそうだが)当夜、演奏会に立ち会った作曲家カバレフスキーもコメントしているように、テンポを思いっきり速くして、威厳とか祝祭気分を意識的に避け、その代りダイナミズムを優先させた。カバレフスキーも、こちらのほうが作曲者の意図に合致していると述べている。
 はたしてショスタコーヴィッチ自身の告白なのか、「告白」自体の信ぴょう性、あるいは、このコーダをめぐる議論は、現在も尽きないが、少なくとも作曲者にとって、この曲がスターリンへの妥協とか迎合の産物とされることには、到底耐えられないことだったに違いない。そして、こうした一連の行動には、作曲者の屈折した念いと共に、体制に対する強烈な意地と反骨を垣間見るような思いがする。

 ジャケットは、最後のモスクワ公演でのショスタコーヴィッチとバーンスタイン対面の場であり、撮影はツアーに同行した写真家ドン・ハンスタインによるもの。