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第033回 2006/12/18
「ストレート・ノー・チェイサー」な生き方─モンクの生涯

DISC33

コロムビア CS9451
セロニアス・モンク
『ストレート・ノー・チェイサー』

ロコモーティヴ/アイ・ディドゥント・ノウ・アバウト・ユー/ ストレート・ノー・チェイサー/ジャパニーズ・フォークソング/ ビトゥウィーン・ザ・デビル・アンド・ザ・ディープ・ブルー・シー/ウィ・シー
計6曲 モンク(p), チャーリー・ラウズ(ts), ラリー・ゲイルズ(b),
ベン・ライリー(ds)

(録音:1966年11月14日〜1967年1月10日 ニューヨーク)


 20世紀モダン・ジャズの分野において、孤高かつ最もユニークなピアニストといえば、やはりセロニアス・モンクであろう。彼が、ノースカロライナ州ロッキーマウントで生まれたのは、長い間1920年とされてきたが、その後、ジャズ評論家レナート・フェザーなどの調査確認で1917年10月が正しいことになった。従い、来年は生誕90年、亡くなったのが1982年2月だったから、早いもので没後25周年ということになる。
 このモンクというピアニスト、筆者の大好きなミュージシャンの一人だったこともあり、ニューヨークに駐在中は、機会を見つけて随分とライブを聴きに行ったものだし、レコードも60年代に入って彼のコロムビア時代以降は、初出に関する限りほとんどをリアルタイムで入手してきた。
 しかし、そんなモンクとも、彼の死後すっかりご無沙汰の状態が続いていたのだが、数年前購入したCDセット「ザ・コロムビア・イヤーズ 62-68」(3枚組)が発火点になり、再び何かとレコードを取り出しては聴く昨今である。とくに秋の夜長など、その訥々とした打楽器的なタッチや間によって創り出される独特の世界は、まるで潮騒のようにヒタヒタと我が脳に滲み込んで何ともいえない安らぎを与えてくれる。

 ニューオリンズで生まれたジャズは、一時的にシカゴやカンザス・シティ、あるいは、カリフォルニアに移ることはあっても、概ねニューヨークが中心であり続けたし、とくにモダン・ジャズの前身、ビバップの場合、その発祥の地とされるミントンズ・プレイハウスやクラーク・モンローのアップタウン・ハウスなどは、何れもニューヨーク・アップタウンのハーレムにあった。
 6歳のときに家族とともに、ニューヨークのハーレムともさほど遠くはないアッパー・ウエストに移り住んだモンクは、幼いころから姉マリオンとともにピアノに慣れ親しみ、10代初めころには相当の腕前になっていたという。そして1940年、彼は、このミントンズで結成されたハウス・バンドのピアニストとして雇われることになる。
 これらのクラブでは、閉店後も連夜のごとく、ジャム・セッションが行われ、若くて腕に自信のあるミュージシャンたちは挙って参加した。当時の常連には、チャーリー・クリスチャン(1919生まれ)、チャーリー・パーカー(1920)、ディジー・ガレスピー(1917)、ケニー・クラーク(1914)、バド・パウエル(1924)たちがいたが、後にモダン・ジャズの巨匠となる彼らも当時は皆20歳前後の若者たちだったのである。
 常にそのムーヴメントの中心にいたモンクにとって輝かしくみえたキャリアの前途は、しかし決して平坦なものではなかった。有り余る音楽的才能に恵まれながらも、無口で人付き合いが苦手、その上奇行が多く、時間にルーズ、しかも音楽に対しては頑として筋を通そうとする彼の周囲には常に摩擦が絶えず、後からやってきたパーカーやガレスピーに人気や名声の点でもドンドン先を越され、やがて彼らは、新しいモダンジャズ・シーンの若きスターとして巣立っていく。他方、モンクは、ミントンズでの仕事を首になるや、一向にお呼びもなく、止むなく作曲に専念する傍ら,自宅に若いミュージシャンを集めてはハウスセミナーを開催するのだが、後に指導的活躍をするようになるマイルズ・デーヴィスやソニー・ロリンズも、そうした連中の一人だった。時々、馴染みのコールマン・ホーキンスや、ガレスピーから声がかかってバンドに加わったりしたが、ほとんどが失業状態の毎日。幼なじみのネリー・スミスと結婚したのも丁度そんな時で、早速彼女はモンクを助け、生計を支えることになる。新設間もないブルーノートより録音の話があったのは そうした1947年10月のことであった。
 モンクの音楽経歴は、通常、契約レコード会社によって区分けされるのが一般的のようなので、以下年代順に並べてみたい。

モンクの音楽経歴
ミントンズ・プレイハウス時代 
(1942〜1946)
ビバップの誕生
ブルーノート時代
(1947〜1952)
ネリーと結婚(1947)
 初リーダー録音(1947)
 息子ジュニアの誕生(1949)
 麻薬容疑で投獄(1951)
 キャバレーカードの没収(〜1957)
プレスティッジ時代
(1952〜1954)
娘バーバラの誕生(1952)
 パノニカ夫人との出会い(1954)
 母の死(1954)
 パーカーの死(1955)とビバップの終焉
リヴァーサイド時代
(1955〜1961)
キャバレーカード再交付(1957)
コロムビア時代
(1962〜1968)
初来日(1963)
 「タイム」誌の表紙に掲載(1964)
 2度目の来日(1966)
フリー時代
(1968〜1976)
カーネギーホールでのコンサートを最後に引退 
(1976)

 ブルーノート時代、漸く運も向きかけてきたかと思われた矢先、1951年には有名なヘロイン事件に巻き込まれて全くの無実ながら60日間も刑務所に収容され、しかも出所後もニューヨークのクラブ出演に必要なキャバレー・カードまで没収されてしまった。生涯のパトロン、パノニカ男爵夫人などの尽力で再交付されたのは、それから6年後の57年になってからである。その間でも何とか録音活動は可能であり、52年、ブルーノートのあとプレスティッジと契約、55年以降は新興のレーベル、リヴァーサイドと契約する。
 このリヴァーサイド時代は、モンクにとって遅まきながら躍進の時だったといえよう。何よりもキャバレー・カードが再交付され、晴れて自由にクラブでの演奏活動が可能になるとともに、プロデューサー、オーリン・キープニュースらとリヴァーサイド・レーベルに幾多の名録音を残すこととなる。
 1962年に、メイジャー系CBSコロムビアに移籍。モンクの生涯でも、生活面で最も安定した期間はこのコロムビア時代だった。63年に、念願の訪日も果たし、翌64年2月には「タイム」誌の表紙を飾ったのである。かってミントンズの盟友たち、中でも天才といわれたクリスチャンは1942年に23歳で、パーカーは55年に35歳で、そして親しかった弟分のパウエルも、この録音の直前、66年7月に42歳で、何れも早すぎる壮烈な戦死を遂げたあと、生き残り組の一人、老雄モンクに訪れた束の間ではあるが、平穏で音楽的にも最も充実した時期となった。

 今回、取り上げたレコードは、モンクが50歳を目前に製作されたこのコロムビア時代の名録音「ストレート・ノー・チェイサー」である。
 筆者が、偶々ニューヨーク駐在中に発売されたアルバムでもあり、発売とほぼ同時に忘れもしない57丁目のレコード店「サム・グーデイ」に飛び込んで購入した。「ダウンビート」誌ほかの評も頗る好意的だったと記憶する。
 コロムビアに移籍後、初めてのスタジオ録音でもあったが、同レーベルのジャズ部門が誇る名プロデューサー、テオ・マセロが介入した演奏だけに、モンクを初め、各プレーヤーも、ピリピリした雰囲気の中でワン・フレーズをも揺るがせにしない引締まった演奏の記録となった。同時に、このアルバム、66年5月に2度目の訪日を果たした折の土産なのか、アメリカでも「ジャパニーズ・フォークソング」(実際は滝廉太郎の「荒城の月」)が入ったレコードとして知られることになる。モンクにとっても珍しく新曲であるこの「荒城の月」、出だしのミーディアム・ファストから幾多の変化するテンポの推移とともに、モンクのピアノとラウズのサックスとの緊張感溢れるインター・プレーが素晴しく、両者をラリー・ゲイルズのベースとベン・ライリーのドラムスがきっちりサポートしている。
 アルバム・タイトルにもなっている「ストレート・ノー・チェイサー」も名演。チェイサーとは、強いバーボン・ウイスキーをストレートで飲んだあと和らげるために飲む追い水の意味。従って「ストレート・ノー・チェイサー」とは最も厳しいウイスキーの飲み方だが、その代わりレアで純粋なバーボンのコアが強烈に味わえる。ライナー・ノーツのオーリン・キープニューズの解説によれば、元々は40年代後半の曲で、モンクは当時ミルト・ジャクスンやアート・ブレーキーとレコーディングしているが、このテーク、モンク、ラウズ、ゲイルズ、ライリー全員がそれぞれ背筋を伸ばしタイトル通り厳しく気合いの入った演奏を披露している。
 同じく何れも50年代の曲「ロコモーティヴ」と「ウィ・シー」、これにデューク・エリントンとハロルド・アーレンのスタンダード・ナンバー「アイ・ディドゥント・ノウ・アバウト・ユー」と「ビトゥウィーン・ザ・デヴィル」の4曲が、何れも「古い革袋に盛った新しい酒」といったところか。どのテークも4人のプレーヤーが各々の集中力を結集させた素晴しい演奏であり、中でもモンクのピアノは、例によって唐突な不協和音とともに不規則な断絶的リズムとルバートを多用しながら、絶対にモンクでなければ出来ない独特の緊張感と斬新で個性的な響きを生み出している。

 このあたりが絶頂期で、70年以降は、病気がちで次第に演奏活動も不定期になっていく。
 1976年3月、念願の息子ジュニアと出演したカーネギー・ホールでのコンサートでは、熱烈な歓迎を受けたのだが、これを最後に聴衆の前に姿を現すことは二度と無かった。
 1982年2月、脳溢血で倒れ、そのままニュージャージーの病院で亡くなる。愛妻ネリーとパノニカ夫人が最後を看取ったといわれる。享年64歳。
  若いころから徹頭徹尾、自由奔放な生き方を貫いたモンクだが、他方愛する家族や友人達そしてパトロンなどの温かい支援があって初めて可能となった幸せな人生でもあったと云えるのではなかろうか。  

 ラスロ・キュービニのイラストによるジャケット。これが難解。かって一緒にレコード・ジャケットの本を造ったとき、このイラストを見て故池田満寿夫氏は「解剖学的」、夫人の佐藤陽子さんは「気味の悪いシュールな絵」と云われた。半眼を開いて横たわるモンクの頭の中にある何か機械仕掛けらしきものと外側の機械が連動しているようで、よく見るとかなりの部品が旧式な木製仕上げなのが面白い。向かって左手にあるのは、ピアノの構成部品であろうか。ニューヨーク駐在時、キュービニ氏の居所を調べ、ジャケットの意図するところを直接聞いてみようと思ったこともあったが、いかにも野暮という感じがして止めてしまった。思い出のレコードでもある。