もう7、8年昔のことになるが、仕事の関係で結構長い期間、信州・伊那谷で過ごしたことがある。しかも人里離れた場所での一人暮らしだった。この伊那谷は殊の外、秋がいい。11月に入るや周囲の山々は華やかな紅葉に彩られるが、やがて落葉。冬に向って木枯しが吹き始めるようになると、遠くアルプスの峰々に雪が舞うのが眺められる。寒さとともに何とも云えない寂寥感に襲われるのもそんな時で、そうした秋の夜長、決まって鳴らしたレコードがフランクの室内楽だった。
へ短調の「ピアノ五重奏曲」、イ長調の「ヴァイオリン・ソナタ」、そして、ここで取り上げるニ長調の「弦楽四重奏曲」だった。
フランクの音楽には、美しく詩情味溢れるメロデイや豊かなハーモニーの中に、何時も聴き終わってから気持を落ち着かせ、心底和ませてくれる何かがあった。それは、多分彼の音楽の中に含まれる深い信仰心に基づく揺ぎない精神性によるものではなかろうか。
セザール・フランク。1822年、ベルギー東部のドイツとの国境に近い町リエージュの生まれ。母方はドイツ系だった。
このベルギーという国。地図で見ても分かるようにヨーロッパのほぼ中央に位置し、南西がフランス、東にドイツとルクセンブルグ、北をオランダと国境を接し、北西は北海・ドーバー海峡だが、わずか隔ててイギリスがある。人口は1千万人ほど、面積も四国の約1.6倍の小国で、歴史的にもフランクが生まれて8年目の1830年に漸く独立を果たしたという新しい国だ。それまでは、陸路はドイツとフランスの通商の要に位置するとともに、北海に向けてブルージュ、ゲント、アントワープなどの貿易港をもち、中世以来、毛織物工業の中心地だったこともあり、いわばヨーロッパ列強の草狩り場のごとく、フランス、スペイン、オランダ、オーストリアなどの列強に次々と支配され、長い間虐げられた苦難の歴史をもつ。
国内でも、南半分がフランス語を話すラテン系ワロン、北半分はオランダ語を話すゲルマン系フラマンとに分かれ対立してきた複合国家だったし、現在の公用語もフランス語とオランダ語にドイツ語が加わるが、ほとんどの場所では英語も通じる典型的な多国語国家である。
このベルギー、とくにフランクの生まれたリエージュ周辺は、古来ヴァイオリンの製作地として知られ、19世紀以来、幾多の優れたヴァイオリニストを生んだ地として名高かった。偉才マサール、レオナール、ヴュータン、マルシック、イザイたちであり、「ヴァイオリニストの温床」と呼ばれた。この故か、サンサーンスとともにフランクの「ピアノ五重奏曲」の初演をしたのは同郷のマルシックが主宰するマルシック四重奏団だったし、名曲「ヴァイオリン・ソナタ」の献呈者であり、初演者でもあるイザイも同郷の後輩だった。20世紀に入ってからも、名ヴァイオリニスト、アルチュール・グルミォーや、指揮者のアンドレ・クリュイタンスなどがその伝統を引き継いでいる。
さて、大器晩成型の作曲家といえば、何時もその典型のように云われるフランク、小さいころはピアノに並々ならぬ才能を発揮していたようで、ヴァイオリン教育で有名な故郷のリエージュ音楽院でピアノを学んだ後、父親の強い希望もあってさらに研鑽のためパリ音楽院へと進学。ピアノでは名手ジンメルマンにつき、翌年には大賞をとるほどの腕前になったが、何故か自身はきっぱりとピアニストになる夢を捨ててしまい、オルガンと作曲により深い興味を持つようになる。リストのようなピアニストに育て上げることを夢見ていた父親は、怒って1842年、彼をリエージュに連れ戻してしまうが、彼のオルガンと作曲に対する情熱を止めることは出来なかった。
2年後、再びパリに戻ったフランクは、日夜、ピアノや和声の家庭教師などで苦しい生計をたてながら、地道にバッハを研究し、作曲を続ける。やがて、オルガン演奏では認められて1858年、36歳のときサン・クロティルド教会のオルガニストに迎えられ、終生この地位に留まった。遅まきながら、1872年、50歳のときにはパリ音楽院のオルガン教授にも任命される。しかし、作曲のほうは一向に認められることなく、時が過ぎていった。1つには、当時フランスでは、華やかなオペラやオペレッタなど舞台音楽が人気の中心で、フランクが試みていたような地味な器楽音楽は、ほとんど見向きもされなかったからだが、もう1つは、フランク自身、稀に見る無欲・無頓着で清貧に甘んずることを厭わず、いち早く世に認められるために策を弄するとか、栄誉栄達の類いを追い求めるなどは凡そ無縁であったことにも起因する。日本の音楽評論の先達あらえびす氏は、そうしたフランクを「音楽の隠聖」と呼んだ。
しかし、彼の人格と作風に傾倒する作曲を志す若者たちが、自然に彼の周囲に集まってくる。ダンデイ、ショーソン、デュパルク、ルクー、ピエルネ、ヴィダールたちであり、後の史家は彼らをフランキストと称した。
作曲の分野で演奏の機会が与えられるようになったのは、漸く50代を過ぎて1872年に完成したオラトリオ「贖罪」あたりからだった。しかし、この初演は、全く不成功に終わり、1879年(57歳)のオラトリオ「8つの幸い」も見事に失敗。続いて同年の「ピアノ五重奏曲へ短調」、1884年(62歳)「前奏曲・コラールとフーガ」、1885年(63歳)「交響的変奏曲」、1886年(64歳)「ヴァイオリン・ソナタ」、1888年(66歳)「交響曲ニ短調」、1889年(67歳)「弦楽四重奏曲ニ長調」などのいぶし銀のごとき名作・傑作がキラ星のように並ぶのだが、一部の例外を除き当時の評判は総じて良いものではなかった。
例えば、現在そのほとばしるような情熱的曲想で最も人気のある室内楽の1つ「ピアノ五重奏曲へ短調」にしても、1880年の初演時に、この作品を献呈しピアノ・パートの演奏を依頼したサン・サーンスには、さらに謝意を込めて終演後楽譜の草稿まで手渡したのだが、彼はこの作品を好まず、無礼にもそれを丸めてゴミ箱に捨ててサッサと帰ってしまったなどの実に不愉快な話までが伝わっている。
1889年、名作「交響曲ニ短調」がパリ音楽院で初演されたときも、まったく不評で、当時飛ぶ鳥も落とす勢いだった作曲家グノーがその一派を引連れて来場し、演奏後感想を求められて「作曲者が無能であることを肯定したもの」と痛烈に誹謗した。家に戻ったフランクは「初演はどうでしたか」という心配顔の家人の質問に答えて「予想通り、とてもよく響いたよ」と淡々と答えたという。この辺り、当時のフランスの「いじめ的風潮」を感じさせるが、長い間抑圧されてきたベルギー人特有の我慢強さによるものか、あるいは敬虔なクリスチャンだったフランクの世俗を超越した宗教的信念によるものか、何れにせよ彼の精神的強靭さを示す逸話ではなかろうか。(ちなみに、グノーのオペラはともかくとして、最近ナクソス・レーベルでCD化された彼の交響曲一番と二番を聴いてみたが、筆者にとって、それらは厳しいフランクのそれとは比ぶべきもない作品だった。)
しかし、翌90年春、ニ長調の「弦楽四重奏曲」が初演されたときには、生涯で初めて、しかもたった一度の大喝采で受け入れられ、聴衆は立ち上がって何回も作曲者の登場を求めたのである。まったく予想外の反応に驚きながら、「やっと世間の人も判り始めてくれたのかな」と傍らの弟子たちに静かにつぶやいたという。
そして、この作品、現在では人気の点で、先の「ピアノ五重奏曲」や「ヴァイオリン・ソナタ」には若干落ちるかもしれないが、気品と叙情に溢れた名曲であり、フランクによって始められた循環形式による、深い構想に基づく名作であることに変わりはない。人によっては、ベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲群の高みに匹敵し得るフランク最高の作品と賞賛する。
曲の構成は、循環主題による歌曲三部形式とアレグロの2つの主題によるソナタ形式を混合させたフランクらしいユニークな第一楽章、スケルツオ・ヴィヴァーチェで、シンプルな三部形式ながら魅力的な第二楽章に、第三楽章ラルゲットは、長大な歌曲形式だが、第一楽章の循環主題が現れ、祈りの気分に溢れた大変に美しい緩徐楽章である。
レーヴェングート四重奏団は、1927年、アルフレード・レーヴェングートによって結成された息の長いフランスを代表する四重奏団の1つ。当然ながらフランスものを得意とするが、ベートーヴェンの全曲演奏も行った。この演奏も、フランクの様式観を踏まえた名演である。
さて、その後のフランク、まさにこれからという創作の絶頂期において、偶々弟子の家に行く途中、不運にも馬車のかじ棒に脇腹を打たれて、意識不明に陥ってしまう。この「弦楽四重奏曲」初演から僅か7ヶ月後、これが原因で肋膜炎を引き起こし、多くの弟子たちに惜しまれながらパリで亡くなった。1890年11月、享年68歳。葬儀は、長年フランクゆかりのサン・クロティルド教会で行われた。
最後に、作曲家故芥川也寸志氏の有名な“落ち”を引用させていただき、このコラムを終えたい。“馬の馬鹿めが!”
ジャケットは、A.F.アーノルドによる版画的タッチによるイラスト。地味ながらこの演奏スタイルにも通じる中々味わいのある作風である。 |