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第030回 2006/10/20
“ラテン・ロックの帝王”サンタナ─40年の軌跡

DISC30

米CBS KC30130
サンタナ
『アブラクサス(天の守護神)』

風は歌い、野獣は叫ぶ/ブラック・マジック・ウーマン-ジプシー・クイーン/僕のリズムを聞いとくれ(オイエ・コモ・ヴァ)/ネシャーブルのできごと/すべては終わりぬ/マザーズ・ドウター/君に捧げるサンバ(サンバ・パ・チ)/ホープ・ユー・アー・フィーリング・ベター/エル・ニコヤ
計9曲

(初出:1970年8月 サンフランシスコ)


 “ラテン・ロックの帝王”と云われてきた男、カルロス・サンタナ、当年59歳。
 サンタナの名は知らなくとも「哀愁のボレロ」「君に捧げるサンバ」(サンバ・パ・チ)「哀愁のヨーロッパ」など幾多のヒット曲の、あのむせび泣くようなギターの奏者といえば思い当たる方も多いのではなかろうか。今では現役ロック・ギタリスト中でも最古参の1人となってしまった。
 彼が初期のメンバー、グレッグ・ローリーら6人とサンフランシスコで「サンタナ・ブルース・バンド」を旗揚げし、ミッション地区を中心に活動を開始したのが、1966年秋、従って今年はグループ結成以来40周年ということになる。
 昨年(2005)11月には、「スーパーナチュラル」(1999)、「シャーマン」(2002)に続いて、多彩なゲストが参加するコラボレーション形式による3部作最後のアルバム「オール・ザット・アイ・アム」を発売、売上げも順調に伸ばしており、相変わらず意気軒昂。生涯売上アルバム数でも1億枚達成が目前となった。
 ともかく、40年もの長い間、生き馬の目を抜くように浮沈の激しいロックやポップス界で、常に第一線で活躍し続けたという事実だけでも大したモノであろう。
 しかも1973年以降、何回も日本には演奏旅行で来ているし、日本贔屓で、東洋の宗教や思想、文化に深い興味をもったり、彼が終始徹底して強いこだわりをもつアルバム・ジャケット分野でも、「ロータスの伝説」(1974)や「アミーゴ」(1976)では日本の作家、横尾忠則と、「ムーンフラワー」(1977)では 山岳写真家の白川義員と組んで何れの場合も素晴しい成果をあげるなどにより、日本でのサンタナ人気も根強いものがある。

 カルロス・サンタナ。1947年7月、メキシコ生まれ。父は、マリアッチのヴァイオリン奏者だった。5歳からその父にヴァイオリンのレッスンを受けるが、10歳からはギターも習得する。62年、一家でテイファナ経由、サンフランシスコに移住。ハイスクール時代カルロスは、マリアッチのバンドに加わって酒場で演奏するようになるが、このころは専らブルースに惹かれていた。
 当時のサンフランシスコは、アメリカでも フラワー・チルドレンやヒッピーの集まる場所として注目されており、60年代半ばには、新しいアート集団やバンドがタケノコのように生まれた。ビル・グレアムのフィルモア・オーデイトリアムやファミリードッグのアヴァロン・ボールルームなどのライヴ・スポットが常打ちの拠点として有名になったのもこの頃である。 こうした中、1966年カルロスは、先の「サンタナ・ブルース・バンド」を結成するのだが、当初はブルース中心の地味な曲が多く、人気のほうもいまいちだったようだ。しかし、68年、バンド名を「サンタナ」と改名。パーカッシヴなラテン的色彩の強いロックへとシフトし、メンバーも固定されるや、地区での人気も少しずつ定着してくる。68年9月、フィルモア・ウェストでの有名なアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドとのセッションでは、カルロスがギタリストとして参加し大いに名を挙げた。
 そして、このサンタナが一躍全米の脚光を浴びたのは、1969年8月ウッドストックのロック・フェスティヴァルだった。ここでの熱演ぶりは 映画「ウッドストック」にも収録され、今でも語り草になっているし、同じ年に、タイミングよく最初のアルバム「サンタナ」がリリースされるや、地方の1バンドから、世界的なロック・バンドへと大きく飛躍することになる。このデビュー・アルバムは、全米アルバム・チャートの4位を記録し、忽ち200万枚を売った。シングルにカットされた「イヴィル・ウェイズ」が9位、「ジンゴー」も56位の大ヒットとなった。
 このころアメリカでは世を挙げて若者たちの天下になってしまうのではと錯覚するほど、ヴェトナム反戦や黒人の公民権や反差別闘争など反体制運動が、サイケデリックなヒッピーイズムや平和・共同体精神を掲げるフラワー・パワーと結びついて、特にニューヨークやカリフォルニアを中心に最高の盛り上がりをみせていたが、サンタナも、こうした大きな革新的うねりを味方につけつつ、上手く上昇気流に乗っていったのである。

 そして、第2弾として自信をもって世に送り出したアルバムが、ここに登場する「ブラック・マジック・ウーマン」(天の守護神)である。発売とともにアメリカでは大ヒットし、6週にわたって全米アルバム・チャートで1位、400万枚を売上げた。さらに、シングルにカットされた「ブラック・マジック・ウーマン」が全米第4位、「オイエ・コモ・ヴァ」も13位にランクされるなど、大ヒットとなった。因に、このアルバム・タイトルにもなっている「ブラック・マジック・ウーマン」は、元々フリートウッド・マックのオリジナル曲であるが、このサンタナ・ヴァージョン、パワー溢れる中々の力作で、この曲に続く「オイエ・コモ・ヴァ」とともに、一度聞いたら忘れ難い名曲である。
 メンバーは、カルロスのギターに、サンタナ・ブルース・バンドの創立以来の相棒でキーボードとヴォーカルのグレッグ・ローリー、彼の叩きつける打楽器のようなハモンド・オルガンや、マイケル・シュリーヴの雷鳴のごときドラムス、ニカラグア出身のコンガ・プレーヤー、ホセ・チェピート・アレアスらのワイルドでパンチのきいたパーカッションがリズム・セクションを構成し、激しく情熱的なラテン・リズムを切り刻む。
 よく言われる通り、カルロスの官能的で切々と情感に訴える“泣きのギター”とこの強烈極まりない“ラテン・パーカッション”が華々しく対決する正に“ラテン・ロック”の誕生だった。  ここに至って、カルロス・サンタナは、アメリカ・ロック界ではジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスンらと共に押しも押されぬビッグな存在となる。
 その後、ギターに17歳のニール・ショーンを加えてツイン・ギターとなり、「サンタナ3」(1971)と「キャラバンサライ」(1972)を相次いで発表し、人気は不動のものとなる。しかし、この辺りをピークに、ジャニスやジミ・ヘンドリックスの死やヒッピー・ムーヴメントの挫折なども影響したのだろうか、カルロスは、より精神的な方向を模索するようになり、さらにジャズのジョン・マクラフリンやジョン・コルトレーンの妻、アリスらと交流しながら、ジャズ・フュージョンの方向へと針路を変えていく。ヒンズー教の導師スリ・チンモイに深く傾倒したのもこの頃だったが、新しい路線シフトに同調できないローリーやショーンはバンドから去っていった。
 これを機に、バンド名も「ニュー・サンタナ・バンド」と改名。73年の日本公演のころはそうした時期であり、日本でのライブ録音によるアルバム「ロータスの伝説」では、横尾の豪華絢爛たる宗教的ジャケットを含め、とくに「ストーンフラワー」などの新作において彼の信じる宗教的フュージョン・ワールドが展開されている。マクラフリンとの共演アルバム「魂の兄弟たち」や「ウエルカム」、アリス・コルトレーンとの共演のアルバム「啓示」「不死蝶」などは、この精神性を重視したフュージョンへの傾倒時期の産物だった。しかし、76年発売の「アミーゴ」になると 再びラテン的な傾向が戻ってきて、このアルバムに含まれる「哀愁のヨーロッパ」共々久し振りのヒットとなる。
 77年の「ムーンフラワー」2枚組アルバムは、さらに一層ラテン色を強め、人気の方でも再びヒット・チャートで全米10位となる大ヒットとなった。続く「太陽の秘宝」(1978)と「マラソン」(1979)では、何れも、売らんかなのアメリカン・ポップス路線を狙ったが、評判のほうは今ひとつだった。82年の「シャンゴ」録音時にはグレッグが再加入、このアルバムではアフリカをテーマにしたポップ・ロック志向が漸く定着したかに見える。
 翌83年にはキーボードのチェスター・トンプソンの加入により、音楽性とともにエンターテインメント要素の強化が一層推進される。同年バンドではなくカルロス本人名義のアルバム「ハヴァナ・ムーン」や87年の同じくソロ・アルバム「サルバトールにブルースを」は何れもチェスターらとの共同プロデユースによるもので、カルロスの奔放なギター・プレーによるラテン・フュージョンが展開される。そして、1990年のアルバム「ミラグロ」。このアルバムは、それまでのコロムビア・レーベルからポリドールへ移籍後最初のものだったが、カルロスが精神的に影響を受けた先輩たち、ボブ・マーリー、キング牧師、コルトレーン、マイルス・ディヴィスなどに捧げられた。内容はややお堅いものだったが、このアルバムをもって一区切りとし、以降再びヴァイタリティ溢れるサンタナ本来の世界に立ち戻ることとなる。
 南米ツアーのライヴ録音アルバム「セイクレッド・ファイアー」(1993)の成功をへて、暫し満を持して99年のコラボレーション・アルバムの第1作「スーパーナチュラル」へと至るのだが、このアルバムはシングルの「スムーズ」と共に大ヒットとなった。

 いささか駆け足でサンタナ40年の軌跡を概観してみたが、カルロスがロック史上に果たした役割といえば、一般的にはラテンとロックを融合したこと、ロックにおけるパーカッションの重要性を認識させたこと、そして何よりも40年間の紆余曲折があったにせよ、結局のところロック自体を単純にして官能的、かつ誰にでも楽しく分かり易いものに仕立て上げたということではなかろうか。
 幾多のスタイルの変遷を重ねつつも、この単純明快な楽しさへの帰結こそ、現在のサンタナの特徴であり、時には低調な時期もあったにせよ、これだけ長い間、高い人気を保持し得ている秘密でもあるのだ。
 当分は、現在の華麗なコラボレーション路線で我々を存分に楽しませてくれるのであろう。また、カルロスは昭和22年生まれで、日本では正に団塊の世代の1人。これからも団塊のホープとして末長く元気いっぱい活躍してもらいたいものだ。心からエールを送りたい。

 ジャケットは、マティ・クラーウェインによる「ブラック・マジック・ウーマン」、即ち「天の守護神」像であるが、西洋の宗教画に多い「受胎告知」を想起させるような作品である。彼は、1932年ドイツのハンブルグ生れだが、2歳のとき、パレスチナへ移住。画面中央の逞しそうな黒人女性、即ち守護神は彼のガールフレンドをモデルにしたという。当時のヒッピー文化を代表する優れたサイケデリック・アートの1つである。