岡本文弥(ぶんや)という名の反骨の新内語りが、1世紀にわたる波瀾にみちた生涯を全うされたのは平成8年(1996)10月のことだった。ついこの前、接した悲報のような感じがするが、早いもので文弥没後、今年がちょうど10周年に当たる。
明治28年(1895)1月東京・根津の生まれ、江戸期から続く生粋の東京っ子。もともとやさしい性根の正義漢で、少年の頃から威張った者をとことん嫌い、弱い者いじめを憎むという性格は生涯変わらず、明治・大正・昭和・平成という激動の4世代を真っ当に生き抜いた希有な芸人であった。母、母方の伯母2人、父方の伯父が何れも新内語り、当たり前のように新内の道へと進むべきところ、若いころは小説家志望の文学青年で一時期、雑誌の編集などにも携わったりする。後年、新内古典の伝承とともに自身250を超える新作を発表したのもそうした果たせなかった青春の夢の別の形での自己実現だったのではあるまいか。邦楽研究家、吉川英史氏は、古今新内界のビッグ・スリーとして 江戸期新内節の両横綱といわれた『蘭蝶』の作者鶴賀若狭掾と、『真夢』の作者富士松魯中の2人に、この岡本文弥を加えられ、しかも、文弥師は、作品の数、芸域の広さにおいて、江戸期の2人の巨匠をはるかに凌駕していると断言される。文字通り、20世紀を代表する新内節の演奏家であり作曲家だったといってもよいだろう。
第2次大戦中は、「西部戦線異常なし」「磔茂左衛門」「太陽のない街」「唐人お吉」など幾多の左翼系作品を発表。“赤い新内語り”と名指しされ、官憲からは徹底的にマークされるが、そうした弾圧下にあっても彼の強烈な反骨精神が挫けることは決してなかった。
その後も、本来の古典の整理や復活演奏に加え、自身の経験を素材にした「金沢情話」を初め「おさん茂兵衛」「江島生島」「にごりえ」など新内らしい作品を残す一方、平和反戦への強い念いは最後まで衰えず、「ノーモア・ヒロシマ」(「人間を返せ」)や従軍慰安婦を扱った「ぶんやアリラン」などの話題作を発表する。
1957年には無形文化財の指定を受けるとともに芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、一般的にも評価されるようになるが、何よりも、師の偉大さは、彼の著書名「百歳現役」ではないが、文字通り、101歳で亡くなる間際まで常に第一線で活躍されたことであろう。その間、本来の新内の演奏や創作に加え、新たに新内舞踊を創作したり、余技として、俳句、短歌に稚気溢れる書、そして「芸渡世」(三月書房)「ぶんやぞうし」(新日本出版社)「芸流し人生流し」(中公文庫)など数々の優れたエッセイ集を残された。エッセイは最晩年まで書き続けられ、そのなかに長寿の秘訣として「無欲」と一度ならず述べておられた。そして、筆者にとって何よりも印象的だったのは、その旺盛で変わることなき批判精神だった。例えば、昭和38年(1963)に書かれた「邦楽どうなるかに就いて」という題のエッセイには次のような文章がある。
「所詮今までの形の邦楽はモウ庶民のものとは言えず、一部同好有志のための特殊芸術として、そのような解釈で大事にして行けばよい。・・長唄や新内や清元や、諸流消えて無くなってしまっても新しく「三味線」が生きてくれればそれでいいと思う。どちらにしても従来の邦楽、殊に浄瑠璃形式のものは現代に生きる資格に乏しく、そのような歓迎を持ち得ない芸は現代に堂々と生きる権利は持っていないんです。多くの邦楽家にはその自覚がなく『オレタチの芸はイナカモノにはわからねェ』と気取っています。即ち、自ら墓穴を掘るというべきか。」
また、「新内は滅びるから美しいのです」と開き直ってもおられる。
この新内節なるもの、250年ほど前、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派であるが、同じ江戸期の浄瑠璃の中でも、早くから歌舞伎の出語りや舞踊の伴奏から離れ、主に吉原の遊郭を中心に色町を流しながら、心中など生世話な出来事を題材に庶民の間で生き抜いてきたトコトン庶民の芸であった。
新内の味について、劇作家榎本滋民は「私にとって、新内にぞくぞくするのは、骨肉にしみ入る音曲だからである」と述べておられる。だいたいあの二丁三味線による哀切極まりない「新内流し」からして胸を締め付けられるような淋しい響きがあって、新内が江戸期の一時期、悲惨な境遇の遊女が多い吉原から閉め出されたというのも、故なしとしない。
今回取り上げたのは、「明烏」とともに新内の代表的な名曲『蘭蝶』である。
本名題は「若木仇名草(わかきのあだなぐさ)」であるが、通称は、主人公の名をとって「蘭蝶」と呼ばれる。作詞・作曲は、初代鶴賀若狭掾で、年代は安永元年(1772)ごろ。現在演じられる新内の最古の曲の1つである。
ストーリーは、声色師の蘭蝶が、此糸という遊女と懇ろとなり、妻のお宮が身売りして工面した身代金まで使い果たしてしまう。お宮は此糸と会い、心をこめて蘭蝶と分かれてほしいと懇望。此糸も同意する。これを立ち聞きした蘭蝶、お宮の真実にほだされながらも、どうしても此糸を思い切れず、2人は心中というお馴染み三角関係による義理と人情の板挟みがテーマである。
本来は長大な曲で、全曲通しで語られることは珍しく、“四谷”と略して呼ばれる此糸の蘭蝶に対するクドキの部分「今宵言ふも古けれど、四谷で初めて逢うたとき・・」か、有名なお宮が此糸をくどく“縁こそ”の「縁でこそあれ末かけて・・」の何れか、から始まるのが通例だが、このレコードでは、最初の長い序節(オキという)「蛾々たる玉顔紅粉を粧ふ、願わくば軽羅となりて細腰に着かん」から始まる全演奏時間も1時間近くの本格的な語りを収録している。1968年、文弥75歳の録音だが、何よりも声が若々しく、語りも深く感動的である。
因に、「ふたりが命短夜(みじかよ)の鳥も告ぐるや鐘の音もあすの浮名やひびくらん」で終わるこの曲、“短夜”であるからには季節は夏ということになろう。
最後にその夏を詠んだ俳人文弥の句を引用して本コラムを閉じたい。
言うことの歯切れのよさの涼しさよ
夕顔や古風を目ざす芸渡世
ジャケットは 文字通り蘭にとまる蝶の図案であろうか。(作者名はクレジットされていない) |