世に「3大ヴァイオリン協奏曲」とは、ベートーヴェン、メンデルスゾーンそしてブラームスによるものを指すが、その由来は、19世紀後半から20世紀初めに活躍し、その門下からエルマン、ジンバリスト、ハイフェッツなどの俊才を輩出させた名ヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーが、「ブラームスの協奏曲は、ベートーヴェンとメンデルスゾーン以降に生まれた最も重要な作品」と述べたことに端を発する。
実はブラームスによるこのヴァイオリン協奏曲、無名のころからいち早く作曲家ブラームスの才能を認めて、積極的にリストやシューマンに紹介するなど、常に援助を惜しまなかったオーストリア=ハンガリー系の大ヴァイオリニスト、ヨアヒムに対する感謝の意を表するために作られた。作曲を始めたのは、交響曲第2番ニ長調を仕上げた翌年の1878年の夏、ブラームス45歳のとき、風光明媚な避暑地ペルチャッハに戻ってからで、一番気力の充実していた時期でもあった。全般的な構想が出来上がると、早速独奏パートの草稿をヨハヒムに送り、意見を仰いでいる。ブラームスより2歳年長で、自身3つのヴァイオリン協奏曲も作曲しているヨアヒムとの間では、その後も作品に関し何回か直接会ったり往復書簡で意見交換したりしているが、その過程で、当初全4楽章の構想が3楽章に変更されるなど、少なからず修正が加えられた。
初演は、翌1879年1月1日、ライプツィッヒのゲヴァントハウスにおいて、ヴァオイリン独奏は勿論ヨアヒムにより、作曲者自らの指揮の下で行われたが、結果は大成功で、聴衆に深い感銘を与えた。当時の高名な音楽評論家ハンスリックは、「ブラームスとヨアヒムの友情の樹木に実った美しい果実」と評したが、いわば、この作品は、ブラームスとヨアヒムとの厚い友情の証ともなった。当然のことながら、作品もヨアヒムに献呈されている。
決してベートーヴェンや、メンデルスゾーンの如き華やかさはないが、雄大なシンフォニックな管弦楽をバックに、ヴァイオリンが一歩も引かずに堂々と対抗するスケールの大きさと豊かな詩情に溢れた名曲として、初演後も、ヨハヒムおよびその一派のヴァイオリニストにより、積極的に取り上げられ、その人気も急速に広がっていった。
前年作曲されたブラームスの「田園」交響曲と呼ばれる第2交響曲同様、全体を支配するトーンも、柔らかく平和な気分に充ち、例えば、第2楽章アダージョの冒頭に奏でるオーボエによる牧歌的で哀愁に満ちた旋律などは何とも伸びやかで美しい。
さて、時代は変わって20世紀半ば、第2次世界大戦でナチスによる残虐な大量ユダヤ人殺害を経てドイツが敗退した後、20世紀最大の指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、戦時中ドイツ国内に踏みとどまったことを理由に、戦後、連合軍により一切の演奏活動を禁止され、苦境に陥っていた。その時フルトヴェングラーを弁護し救済運動を強力に推進したのが、アメリカ生まれの名ヴァイオリニスト、イェフディ・メニューインだった。イェフディとは、ヘブライ語で「ユダヤ人の」とか「ユダヤ民族の」といった意味だそうだが、さよう、彼はプライド高きユダヤ人である。同時に、紛れもない博愛人道主義者であり、平和主義者でもあった。
フルトヴェングラー個人にとっては、例えば、イタリアの大指揮者トスカニーニのように自由な国外に亡命したほうが、はるかに楽だっただろうと想像される。しかし、彼はナチス・ドイツに留まり、予想されたこととはいえ、敢てドイツ国民のために、不自由な演奏活動を続けながら、数えきれないユダヤ系音楽家の救済に当たった。時には、妥協や取引もあったかもしれないが、ナチス当局との対決は間違いなく常にギリギリの命を賭けたものだった。
こうしたフルトヴェングラーの立場を深く理解していたメニューインもまた非ナチ化裁判においても、根気よく救済工作を行っている。
結局、1947年1月、無罪判決となり、連合国軍から演奏活動の認可が下りたのは、47年5月1日だった。同月25日、戦後初めての手兵ベルリン・フィルとのコンサートが開かれる。そして、アメリカ在住のユダヤ人グループから強硬な抗議が予想されたにも拘らず、同年8月13日、メニューインはザルツブルグ音楽祭でウイーン・フィルを指揮するフルトヴェングラーと初めての共演を果たすことになるのだが、その時演奏された曲が、ブラームスのヴァイオリン協奏曲だった。この共演こそ、“ホロコースト”と呼ばれるユダヤ人大虐殺後のユダヤ系文化人との最初の和解といわれるが、巨匠フルトヴェングラーとの邂逅は、天才といわれたヴァイオリニスト、メニューインにとっても大きな転機となっている。
今回、取り上げたレコードは、それから2年後、ルツェルン音楽祭における同曲の共演を録音したものである。大きなうねりの中に、2つの魂のぶつかり合いというよりは、何故か寄り添うような調和を感じさせ、かつて西条卓夫氏が評された通り、「(メニューインが)完璧にフルトヴェングラーの分身化した交響曲風快演」となっている。
イェフディ・メニューイン。ユダヤ系ロシア移民の子として、1916年のニューヨーク生まれ。3歳でヴァイオリンを弾いて神童と呼ばれ、4歳で名教師ルイス・パーシンガーに師事。1924年、8歳のときサンフランシスコで、26年ニューヨークで、27年にはパリで華々しいデビューを飾り、何れも大成功を収める。さらに、ヨーロッパでは、パリでジョルジュ・エネスコに、続いてエネスコの提案でドイツのアドルフ・ブッシュに、何れも音楽性を重視する当時のヨーロッパを代表する大ヴァイオリニストに直接ついて研鑽に努める。10代後半には、単なる完璧なテクニックだけではなく、その表現に信じがたいほどの深さと円熟味を加えていった。以来、欧米を中心に精力的に演奏活動を続けるが、特記すべきは、第2次大戦中に連合軍のために500回もの慰問演奏を行ったことであろう。
フルトヴェングラーとの邂逅を大きな転機に、メニューインは自ら望んで新たな激しい荒波の大海へと船出していった。
59年以降は活動の拠点を英国に移しているが、彼のヴァイオリン演奏には、より厳しい精神性が加わると同時に、ニールセン、バルトーク、ベルグ、ディーリアス、ブロッホなど20世紀音楽やドビュッシーやラヴェルなど室内楽にもレパートリーを広げつつ、バッハやベートーヴェンなどドイツ音楽を中心に指揮活動へと活路を求めていった。またそのジャンルも、クラシックに限定せず、80年代以降は、フランスのジャズ・ヴァイオリン奏者のグラッペリと組んでジャズを試みたり、インドのシタール奏者ラビ・シャンカールの非西洋音楽的価値を認めて積極的に共演する一方、インドの精神文化や宗教、さらにはヨガに強い関心を示し、その普及に努力する。特筆すべきは、その行動目的の中心が音楽の啓蒙や人材の育成と人道的平和運動へとシフトしていったことであろう。例えば、56年以降、スイスのグシュタートでの音楽祭とか、58〜68年のバース音楽祭、69〜72年にはウインザーでのメニューイン音楽祭などを主催しながら、58年にはメニューイン室内オーケストラを組織。62年には英国サリー州に音楽を学ぶ青少年のために全寮制のメニューイン音楽学校を設立。同じころ、アメリカ、カリフォルニアのヌエヴァ・スクールに音楽カリキュラムを設立している。その門下からは、ナイジェル・ケネディやアテフ・ハーリムなど多くの若手演奏家が輩出した。
また年とともに平和と博愛人道的志向はより徹底したものとなり、終生一貫して精力的にこの分野で活動した希有の大音楽家だった。イスラエル議会では自身の考えを臆せず述べたり、パレスチア難民のために慈善演奏会を開催したりなどは、面目躍如たるものがある。数えきれないほどの平和推進活動によりインドのネルー平和賞、アメリカの核時代平和財団による平和指導者賞などを受賞したが、それらの事績は、1977年出版の自叙伝「UNFINISHED JOURNEY」(“未完結の旅路”とでも訳すべきか)にも詳しい。
1999年3月、ベルリンで肺炎がもとで亡くなるが、享年82歳。まさに“巨星落つ”、世界中の幾多の有識者より深い惜別の声が寄せられ、世界は言いようのない悲しさと淋しさに被われたが、最後まで求道者の如き偉大なる旅人であった。
ジャケットは、ブラームスの肖像写真を背景に、愛器グァルネリのデル・ジュスであろうか、ヴァイオリンを構える壮年期の若々しいメニューイン像が配されているが、その射るような眼の表情は、あくまで厳しく理性的だ。 |