ビバップ・ムーヴメント以降のモダン・ジャズ・シーンにおいて、最も偉大なピアニストは? と問われれば、セロニアス・モンクにするか、バド・パウエルかで、随分と迷うところだが、最も影響力のあったピアニストとなると、これはもう間違いなくパウエルの方であろう。先輩格のモンクは、1917年ノースカロライナ生まれ、6歳のときにニューヨークに移住して以来、1982年2月同地で亡くなったが、パウエルは、1924年9月のニューヨーク生まれで、モンクよりも7歳若く、しかも1966年7月に亡くなったから、モンクよりも16年も早く、41歳の若さであの世へと旅立ってしまった。
しかも、この二人、誰もが認める師弟関係にあり、お互いの音楽を深く認め合いながら、生涯変わることなく友情を貫いている。
アール・“バド”・パウエル(以下、単にバドと呼ぶことにする)は、祖父、父、兄弟が何れもミュージシャンという音楽一家に生まれ、幼いころからピアノが上手かった。弟リッチーも、ピアニストだったが、かの天才トランペッター、クリフォード・ブラウンとともに、自動車事故で1956年に亡くなっている。
そもそも、モンクとの関係は、ニューヨークでお互いの住まいが近かったこともあり、既にハーレムで知られた存在だったモンクは、10代のバドにとって常に憧れの存在だった。
1941年、ニューヨーク・アップタウン118丁目にヘンリー・ミントンにより「ビバップ発祥の地」ミントンズ・プレイハウスが誕生、ドラマーのケニー・クラークとともに、ハウスピアニストとしてモンクが雇われる。ここでは閉店後、毎晩のように明け方近くまでジャム・セッションが開かれたが、その中心には、クラークとモンクがいた。
当時このセッションに参加するミュージシャンたち、チャーリー・クリスチャン、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーたちに交じって、いつも17歳の若きバドの姿があった。以降、頻繁にモンクの家にも通うようになり、いわゆる「モンクのハウスセミナー」の常連になる。
その後バドは、1943年から44年の間、デューク・エリントン楽団のトランペッターのクーティ・ウイリアムスのバンドで演奏するが、彼にとって生涯の初録音は、1944年このクーティのバンドとだった。そのとき、師匠モンクの作った名曲「ラウンド・ミドナイト」をレコーデイングしている。
続いて、ディジー・ガレスピーなどのコンボに参加しながら、ビバップの花形ピアニストとして急速に実力と人気をつけていく。
1949年、自己のトリオを結成。このピアノにベース、ドラムスという構成は、以降バドにとって最も重要な自己表現のフォームとなった。
しかし、バドとモンク、面白いことに、この二人の演奏スタイルは、当時から全く異なるというよりは、対極にあったというべきだろう。華麗なテクニックを誇り、パーカーやガレスピーのホーン・ラインを右手でプレー、左手はコード・チェンジという恰もビバップの申し子のようなバドと、訥々として決して上手いとは言えそうもないタッチ、しかもリズムやハーモニーでは頑として我が道を通し、一体どこにビバップとの接点があるのかと思わせる余りにもユニークなモンク。当然のように、忽ちバドは圧倒的な影響力をもってビバップの代表的ピアニストとして君臨するようになるが、他方モンクはといえば、頗る難解ということもあって、長い間一般的人気とは縁遠い状態が続く。そんな中、最後までモンクから啓示を受け、モンクに対して深い理解者であり続けたのがバドだった。
これは、モンクとて同様で、バドのために「イン・ウォークト・バド」「52丁目のテーマ」など幾多の曲を書いて報いている。
数年前に日本でも刊行されたトーマス・フィッタリング著・後藤誠訳「セロニアス・モンク―生涯と作品」(2002勁草書房発行)にも、この二人に関する幾つかのエピソードが紹介されている。
1つは、1945年1月、不遇時代のモンクがマックス・ローチと共演して偶々好評だったフィラデルフィアのクラブで起った事件。突然、警官が飛びこんできて、モンクに身分証明書の提示を求め、モンクが拒否したため、即刻強制逮捕となった。1人の若いファンが入り口に立ちふさがり、警官に向かって叫んだ。「誰にむかって何をやっているのかわかっているのか。世界でもっとも偉大なピアニストに乱暴するな!」(上掲書より引用)男は警棒でさんざん頭を殴られた挙句、モンクとともに刑務所にぶちこまれるのだが、その若者こそ、20歳のパド・パウエルだった。彼は、この日以降、頭痛を訴えることが多くなり、後年、悩ませた精神病もあるいはこのときの後遺症が遠因だったのかもしれないと言われる。
もう1つは、モンクのファンには、先刻周知の事件で、ここで改めて述べる必要もなさそうだが、それから6年後の1951年、当時麻薬を常習していたバドの車に同乗していたモンクが、ニューヨーク警察の検問の際、偶々ヘロインの包みを手に持っているところを見つかってしまった。窓外に捨てるよう直前にモンクに手渡されたものをそのまま手にしていただけで、彼は無実だったに拘らず、バドや他の乗客のため黙秘する。結果60日間の投獄となり、さらにニューヨーク市の労働許可証(キャバレーカード)まで没収されてしまう。再交付を受けて、晴れて彼が働けるようになるのは、それから6年後の1957年になってからだった。
扨て、ここでは、バドの全盛期、1949年から50年にかけての記録、ドラムスがマックス・ローチ、ベースをレイ・ブラウンとカーリー・ラッセルが受持つピアノ・トリオの名演を収録したヴァーヴ盤を取り上げてみたい。
実は、バドの名盤といわれるレコードには、外にも彼の初リーダー録音を収めた米ルースト・レーベルの「バド・パウエルの芸術」(47年/53年録音)と、米ブルーノートへの一連のシリーズ「アメイジング・バド・パウエル」(49年/51年録音)が存在し、この3種は、何れも甲乙をつけ難い。
結局は、好みの問題となるが、このヴァーヴ盤、全編が瑞々しいインスピレーションと素晴しいテクニックを満載した名盤であることに誰も異存はなかろう。とくにオープニングの「テンパス・フュージット」のアップ・テンポのスピーデイな激しさと厳しさ、「アイル・キープ・ラヴィング・ユー」のスロー・バラ−ドの纏綿たるロマン、B面も「スイート・ジョージア・ブラウン」「パリの4月」「身も心も」などスタンダード・ナンバーに示される巧さと面白さで、大変魅力ある1枚になっている。
50年代前半、バドは麻薬と精神病に悩まされながらもニューヨークを中心に「バードランド」などでの演奏や録音活動を続けるが、次第に入・退院を繰り返すようになり、その演奏からは、かつての迫力や独創性が失われて行く。若干健康状態も良くなった59年以降は、予てからの憧れの地パリなどヨーロッパに生活の拠点を移すことになった。
バドがモンクのナンバーをベースに師に捧げるアルバム「セロニアス・モンクの肖像」を、かつてミントンズの僚友だったケニー・クラーク等と録音したのも、62年12月のパリであった。師の作品に尊敬の念を込めつつ、しかもバド流に演奏しているのだが、「オフ・マイナー」「ルビー、マイ・デァ」など両者の演奏を比較してみると、その特徴や違いが巧まずして表出されていて面白い。 しかし、バドは不幸にもパリで肺結核におかされ、1964年一時帰国のつもりでアメリカを訪れるのだが、二度とヨーロッパに戻ることはなかった。1966年、ブルックリンの病院で死去。直接の死因は、肺結核と栄養失調といわれる。
パリに渡ったジャズ・サックス奏者を描く1986年のタヴェルニエ監督作品、映画「ラウンド・ミドナイト」は、デクスター・ゴートン、ハービー・ハンコックなどジャズメンが多数出演したが、実際はバドの悲劇を描いたものと言われる。
その音楽的成功とは裏腹に、もともと繊細な神経の持ち主だったこともあり、私生活ではあまり恵まれることのない破滅型の短い生涯を駆け抜けたバドにとって、この先輩モンクとの交流は、我々を和ませてくれる心温まる話ではなかろうか。 その天才バド・パウエルが亡くなって、今年(2006年)で早や40年の歳月が流れた。
グランド・ピアノに向かうピアニストの後ろ姿に、恰も真っ赤な夕日の中をあの世へと歩みを運ぶバドを重ねているようなデビッド・ストーン・マーティンによるジャケット画がなかなか印象的である。多分BGMとして画面に流れるのは、モンクの弾く「ラウンド・ミドナイト」であろうか。 |