旧制高等学校の寮歌(第3高等学校=現京都大学の寮歌とする説が多い)として有名な、与謝野鉄幹の作詞になる、「人を恋うる歌」の4番の歌詞に次の一節があることは、多くの方がご存知でしょう。
「石を抱きて野に歌う 芭蕉のさびをよろこばず」 |
俳聖とも言われる、松尾芭蕉。 そしてその精神といえば、「さび」。そのことは広く流布され、この寮歌でも好き嫌いは別にして、当時の常識(少なくとも知識人の間では)であったことは良くうかがわれます。この「悪党芭蕉」は、枯れた求道の俳人とイメージされている、松尾芭蕉の実像に迫ろうとする力作です。
冒頭の「はじめに」の部分で、芭蕉に批判的であった、芥川龍之介の「芭蕉は大山師だ」とする異端的な発言を掲載、更にそれ以前の文人、正岡子規の言葉を紹介しています。「余は劈頭に一断案を下さんとす曰く芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。」ここで作者の嵐山氏は、芭蕉が必ずしも全ての後世の文芸人に、無批判的な聖人的俳諧人としての評価を得ているわけではないことに、釘をさすのです。
芭蕉が自分の最盛期の作品を、「古池や蛙飛びこむ水の音」としたことは、この本の中で明らかにされています。閑静な場所で、恐らく決して大きくはない蛙の水に飛びこむ音が響く、わびを感じさせる名句とされています。しかし、これはまったくの幻想の一幕でしかないことは、嵐山氏の説明を待つまでもありません。句を読んだのは江戸であれば、蛙の種類は限られます(アマガエル、シュレーゲルアマガエル、アズマヒキガエル、トウキョウダルマガエル、ヒキガエル、ツチガエル)。これらの蛙のどれひとつとして、自ら進んで水に飛び込む種類は、今でも東京地方には生息しません。飛び込むとすれば、人や他の動物におどろいた場合だけで、ガサコソという音にあわてる蛙の水音では、この句の雰囲気は台無しです。
芭蕉の思索的世界の産物であると同時に、その当時の将軍綱吉の発布した、「生類憐みの令」への追従の側面もあることを筆者は指摘しています。
これまた有名な芭蕉の句、「荒波や佐渡に横たう天の川」、も仮想空間を詠んだもの。佐渡が荒波にあおられる季節は冬、天の川が天空を横たうことはありません。つまり芭蕉の句の世界は、与謝野鉄幹が思い浮かべたように、野に出でて、石を抱いて見る経験的写実世界ではなく、空想世界にいても生み出すことのできる創造性を内臓しているともいえるようです。
芭蕉の俳句の思想性の流れを、嵐山氏は、まず「作意」を排する「求道性の追及」が「不易流行」と表現され、最後に「軽み」にたどり着いたと解説してくれます。しかし、幻想空間を描くことと、「作意」を排することとの間には矛盾があるようにも思われます。また、「不易流行」も矛盾に満ちています。普遍性の追求、変わらぬものの存在(不易)と、時代の流れ、変化への対応を同時に追及すること(流行)は、様々な解釈を生み出すに違いありません。こうした思索上の複雑さが、一方では「大山師」とも言われる根拠でもあろうと嵐山氏は推測しています。またそれは、芭蕉亡き後の蕉門の下あまりにも急速な解体の原因とも言われています。
芭蕉を取り囲む人々を、筆者は次のように俯瞰します。
「芭蕉が弟子とする者は、まず豪商である。つづいて医者、屈強なる藩士、藩士くずれの浪人。さらに神道家(たとえば曾良)がいる。それに乞食僧だの僧侶が加わる。」 |
こうした種々雑多な階層を、「コロリと配下にしてしまう」芭蕉を「天性の戦略家」と称し、「かくも強力な文武両面にわたるネットワークを張り巡らす奇跡」を可能としてきたのが、蕉門ナンバーワンであった、弟子其角の存在であろうと論じます。(其角の天才性と奔放性が、蕉門解体を促進したようです。)
この著作の中で、圧巻は、第8章「超簡約『猿蓑』歌仙」です。芭蕉の歌仙集の中で尤も優秀であるとされる、「猿蓑」に寄せられた芭蕉とその門下の俳句を、的確に「簡約」し、適切な評価を加えています。また、俳諧の席にいる芭蕉の姿を「言葉の霊媒師」と評するに値するものとしてよく描ききっています。筆者の並々ならぬ芭蕉とその一門に俳句への深い造詣を理解させる、最も重要な章節だと読みました。
最後に筆者は、「知れば知るほど、芭蕉の凄みが見えて、どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった」と謙遜しています。芭蕉の「悪党ぶり」の深遠さにメスを入れたこの作品は、一読の価値があります。