世界的に著名となった、版画家・棟方志功、還暦時の自叙伝です。かの谷崎潤一郎が序文を寄せ、草野心平が解説を担当した、この「板極道」の出版については若干の説明が必要です。「板極道」が、谷崎潤一郎の序文つきで最初に出版されたのは、1964年(昭和39年)、著者61歳の時でした。その後1972年(昭和47年)にいったん改定されます。その三年後、1975年(昭和50年)に棟方志功は72歳で永眠するのですが、志功とは同年齢で、友人でもあった詩人、草野心平が著者の逝去を悼んだ惜別の辞を後書として追記し、1976年早々に新たに初版として出版されたものが、この著作です。
まず文章表現の多彩さ、自由さ、奔放さに幻惑されかねないような驚きを感じます。既に多くの方がご存知のとおり、棟方志功の出身は青森県。津軽のアクセントを強くもって、あたかも読む側の人々に直接語りかけているような臨場感あふれる表現が続いていきます。才気煥発に流麗な文をつづる文学者の表現とも、状況に応じた心象風景を巧みに描いてみせる随筆家の表現ともまったく異なった、芸術家棟方志功の独特の文章表現の世界なのです。
棟方志功は、当初(そして終生)ゴッホを憧れの師として油絵に熱中します。彼の絵画における郷土の影響を、まず「青森の凧と弘前の凧と五所川原の凧の三つの流れ」にあったと述べて、このように表現しています。
「青森の凧の流れ、弘前の凧の流れ、五所川原の凧の流れ、それぞれにわたくしのこころに、絵が描けて行ったのでした。いまでもこの凧絵が、からだの中に入っていて、わたくしの絵や板画の魂を入れているのには、かわりありません。」 |
そして更に、「凧の絵と同時に、わたくしに絵を描けと教えてくれたのは、七夕祭りの催しのネプタでありました」と続けます。色彩あふれる故郷の大胆な絵画表現が棟方志功の原点となっていることの証でしょうか。
故郷青森で高等小学校を卒業後、実家の家業である鍛冶屋を手伝い、ついで裁判所の給仕という稀有な仕事をこなしながら一心に絵に筆を振るいます。周囲の理解を得て、本格的に洋画で名を挙げるべく上京したのが21才の時(大正13年、1924年)。上京前の「東京弁の猛稽古」のエピソードには思わず笑ってしまいます。勢い込んだ帝展への出品も、当年、2年目、3年目と落選が続き、靴直しや納豆売りの失意の日々が続きます。かくて昭和3年(1928年)、「死んでも死に切れない」思いを秘めて、「朝も昼も夜も、夜中に眼がさめると手を動かして」作成した作品が、見事に初入選します。しかし日本の洋画界にあきたらない芸術の天才は一ところに留まることがありません。
「そのとき、わたくしの想いのなかに、一つ天啓というか、火の玉というのでしょうか、からだ全体をもやす焔がひらめいたのです。<略>ゴッホが発見し、高く評価して、賛美をおしまなかった日本の木版画があるではないか。よし板画で、それを表現しよう。自分の全部をそのことに展開させよう。それこそ、現代の世界画壇に贈る日本画壇の一本の太い道だ。その橋を架けよう、日本木版の大橋を。わたくしは心の中で叫喚しました。」 |
かくて木版画に取り組む棟方志功の努力は、後に訪欧したときにこのように報われます。
「一昨年(1959年)、オランダに行ったとき、ゴッホのひまわりの絵のごく側に、わたくしの板画が陳列されていました。それを想いこれを想い、ただ泪が止まりませんでした。」 |
棟方志功は、洋画と木版画(板画)について、かなり早い時期(恐らく昭和8年、1933年、30歳のころ)自分の作風をこのように方針付けています。
「わたくしは、これからは、油絵は原色で混りっ気のないものを描こう、板画では、黒と白を生かしていこう、たれが何といおうと、このほかの手だてのないものと信じました。白と黒をいかすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、紙の上をごろごろと転げまわって生み出すような、からだごとぶつけていく板画をつくってゆくほかはない、と思い切ったのでした。指先だけの仕事ではなにもない。板業は板行であって、からだごとぶつける行なので、よろこんで行につこう、と心肉に自答決心したのでした。」 |
版画(板画)において、一見荒々しく見えながらも、情熱の焔が柔らかい曲線の表現に託される日本の美を求めた独特の世界をうかがわせる一節です。ヨーロッパ、アメリカの旅の項で、本人は、好きな絵描きをさらりと挙げています。洋画家では、もちろんゴッホ、ついでロートレック、ピカソ。日本においては、雪舟、大雅、大観、梅原と。燃えるような原色の世界、色彩バランスの極められた世界、そして幽玄とした白黒の世界のすべてを愛した芸術精神が見て取れます。
長年、見ることができれば是非訪問したいと希求してやまなかったミケランジェロの「最後の審判」に立ち会った感想が、天才の謙虚さと美意識の寛大さを示して感銘深いものです。
「なにか身が軽くなって、思いとか、想像とか、願いとかいうものが、そういったものが、一度にからだから離れて、アクが抜けたというか、いらないものが全部からだからなくなって、ほんとうにいいものばかりが、星のように、太陽のように、知らず識らず大きい目方でからだにはいってきた、いままでの借金を返しながら、反対に、こんどはわたくしが何かを貸しているような、− 美というものは、たしかにみんなに分け与えているものだというような判ったような気がして来ました。これでこんどのたびの最大の眼目をとげ、幸せしたと思いました。」 |
草野心平は、文末に、棟方志功の芸業(芸術行為の自称化と思われる)を、「『板画ばかり』では決してない。油絵もあり大和絵もあり書もあり実に幅が広い」と賞賛しています。志功芸術の琴線に触れたように思える一書です。シバザクラでヒトのあふれる前に、羊山公園(埼玉県秩父市)の「やまとあーとみゅーじあむ」を訪ねることにしました(関東圏では志功作品展示で有名です)。
http://www.fudasyo.com/info/bn_yamato.html
この自叙伝は、板画家、書家、絵描きとしての棟方志功を理解する上で貴重であるだけにとどまらず、その芸風が文字を通しても芸術的に表現できることを見事に示しています。