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第44回 2006/02/01
戦後日本のジャズ文化
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書名:戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ
著者:マイク・モラスキー
発行所:青土社
出版年月日:2005年8月15日
ISBN:4−7917−6201−0
価格:2,520円(税込)

ある特定の音楽分野を著述する際には、その視点によって大きく展開される世界が変わってきます。作曲されてきた音曲の特徴とその歴史から見る方法。演奏されてきた特徴とその歴史から見る方法。音楽を生み出すに至った社会的な背景、土壌から見る方法。 この著作は、これらのどれでもなく、本来日本のオリジナルな音楽分野ではなかったジャズが、どのように日本社会に受け入れられてきたのかという観点からできる限り詳述しようとしています。 日本社会、特に第二次世界戦争後の日本社会で、どのような意識を持った人々に、どのように受け止められ、どのように表現されてきたのかという現象を、その特徴的な相違において時代の変転を大きく概論しようとする、ジャズを柱とした戦後日本の文化史を描こうとした野心作といえます。私の知っている限り、このような視点から戦後のジャズを歴史的に総括しようとした試みを他に知りません。

私は、録音、記録された「過去の音楽」の再生機器を製造する側に位置付くものですが、音楽を再生音楽でしか聴かないスタンスには抵抗感を覚えるものです。様々な場所で、様々なレベルの演奏家の演奏を直接聴くことによる、演奏家と聴衆のかもし出す一体感は、これを抜きには、再生音楽でさえ楽しめないと思っております。コンサートホールやライブハウスなどの生の音楽と、再生機器システムを介した再生音を比較し、かつて語られた「原音再生」を標榜する立場にはありません。時として、演奏会場の環境の悪さから、音楽そのものであれば、むしろ再生機器に、優れた録音手法のとられたレコードや、CDそのほかのソフトを使用した再生音楽のほうが優れていると感じることさえあるからです。しかし残念ながら、再生音楽には、演奏者との一体感とそれに伴う音楽的な創造に加わっているという幻想的な喜びを感じることはできません。何人で聴こうとそれは孤独な個人的な音楽上の思索行為以上にはなりえません。 その意味で、ジャズの愛好家であるだけでなく、ピアノ演奏家でもある著者が、60〜70年代の日本固有の「ジャズ喫茶」のストイックな側面を批判している点にまったく拍手を送りたい気持ちです。

この著者の、日本のアングラといわれたマイナーなものも含む映画、数々の文学作品についての博学ぶりは、驚嘆するものがあります。ましてはアメリカ生まれなのですから。黒澤明の初期の作品におけるジャズの取り扱いが、「クラシックは高貴であり、ジャズは低俗」とする恐らく当時の社会的通念をそのまま表現しているとする指摘は鋭いものです。そしてこの類の問題の指摘は、随所に記述されています。詳細は是非お読みいただくとして、著者は、日本のジャズの変遷をこのように概略しています。

日本のジャズ受容史を見渡すと、今まで「全盛期」や「黄金期」と呼ばれる時期は、戦前を含め少なくとも三つあったといえる─(1)昭和初期のダンス・ホール時代、(2)戦後初期にジャズが大衆向きのダンス・ミュージックとして幅広く受け入れられた時代、そして(3)60〜70年代前半という大学生中心の「モダン・ジャズ全盛期」である。〜略〜日本のジャズ受容史を概観すると、ジャズがもっとも注目を浴びた時代というのは、やはり、新たな生き方が求められるときや、人間と社会のあり方が根本的に同一視されるときであったことが浮き彫りになる。すなわち、モダニズムとともに新たな価値体系が波紋を起こしたダンス・ホール時代、世の中の全てが崩壊したと感じられた戦後初期、そして社会のあらゆる側面が問いなおされるという激動期の60〜70年代初期─それぞれの時代に、それぞれのジャズが注目を集めたのであり、それぞれが「日本のジャズ全盛期」と見なされてきたのである。