第43回 2006/01/01 |
バイオリニストは肩が凝る |
書名:バイオリニストは肩が凝る 鶴我裕子のN響日記 著者:鶴我裕子 発行所:アルク出版企画 出版年月日:2005年6月30日 ISBN:4−901213−52−0 価格:1,890円(税込) http://spn62787.co.hontsuna.com/ NHK交響楽団で、第一ヴァイオリンを担当するヴァイオリン演奏家、鶴我裕子(つるが・ひろこ)さんのおそらく最初の随筆集。抱腹絶倒とまではいわないまでも、なんとも自然に笑みが浮かんでくるウイットに富んだ表現の連続です。 以前この「みだれ観照記」で日本を代表する指揮者の一人である岩城宏之さんの「オーケストラの職人たち」を紹介したことがありました(第33回)。あの著作が、ある意味で指揮者から見たオーケストラの舞台裏であるとすれば、今回の鶴我裕子さんの随筆は、演奏者から見たオーケストラの舞台裏ともいえます。 多くの方が、中学生や高校生の吹奏楽団と、プロフェッショナルな演奏家からなるオーケストラとの本質的な相違を見逃しているのではないでしょうか。例えば、昨今の邦画、「スイング・ガールズ」(矢口史靖監督、2004年作品)に典型的なように、大部分の学生からなる楽団では、指揮者である教師が演奏方法、技術の教師でもあります。つまりが団員はまさに演奏上の生徒であり、指揮者は全能の先生であるわけです。ところがこの関係を無意識のまま、プロのオーケストラの指揮者と演奏者にも当てはめて考えていないでしょうか。とりわけ有名な指揮者、例えば小沢征爾があるオーケストラを指揮した場合、新聞や、音楽ジャーナリズムは、「今回の小沢征爾の音楽は....」といった表現をとりますのでなおさらです。 もちろん、100名からなる演奏者の全員に指揮者が演奏方法を教授することなど物理的に不可能です。この著作でも触れていますが、定期演奏会の練習は3日間だけなのです。鶴我さんは、こういいきります。「奏者は指揮者よりもよく練習し、経験を積んで曲を知っていることがほとんどで、我々のささやかな願いは、『せめてジャマをしないで』ということにつきるのだ」と。 最近のNHKラジオの番組で、指揮者・岩城宏之さんは、「指揮者の役割の第一は、曲に表現された作曲家の趣旨をどれだけ正しく理解するかにあり、それゆえに、演奏が終了した段階で作曲家が微笑んでくれたイメージを心に浮かべることができれば、仕事の完成度の高さに安堵する」という意味のことを語っていました(なかなかベートーベンは難しい顔を崩してくれないとも苦笑い的に付言していました)。では作曲家の曲にこめられた意図を、指揮者は何を持ってオーケストラに伝えるのでしょうか。それは「まず『テンポの設定』にある」と演奏家・鶴我さんは断言します。「(リハーサルの)初日に振り始めるテンポは『決定版』でなければならず、何日目でも、どこから始めても、常に同じでなければいけない」と。これに続けて、「これひとつクリアできない困ったちゃんの、何と多いことか」と嘆息するのです。 端的に申しますと、プロの演奏家であるオーケストラは、ある音楽を技術的に表現するすべを既にリハーサル前に完成させています。技術的な完成度に、その曲の作曲家の(指揮者の理解する)意図を音楽のテンポと強弱の付け方で表現するのが指揮者であるとも言い換えられるでしょう。 私たちは、なかなかプロフェッショナルな演奏家の、他の演奏家についての本音を聞くことは難しいと思っています。しかし鶴我さんはこの著作の中で、自分以外の多くのバイオリニストの名前を具体的に挙げ、的確に賞賛しています。ライバルに対する鶴我さんだけの寛大さなのでしょうか。しかし、そういうものではないようです。談笑的な最終章の「裕子の音楽事典」、「演奏会評/音楽批評」の箇所でこう述べています。「我々が最も気にするのは、同業者の感想であり、最もうれしいのは、同業者の賞賛であり、そして意外でしょうが、最もあたたかい目で見てくれるのが、同業者なのだ(逆に、いちばんイジワルなのはアマチュアの人です)」 こういうセンスで書き進めるこの随筆集。なかなか面白いと考えられませんか。年初めに、肩を凝らすことなく音楽的感性を磨くのも結構なことだと思いますよ。また、多くのクラシック音楽の著作者のお気に入りが紹介されています。演奏者のお勧め曲目ははじめて目にしました。これだけでも読む価値があります。その何曲かでも正月休暇に聞いてみるのも一興です。是非手にとって見てください。
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