第23回 2004/05/01 |
雷電本紀 |
天明6(1786)年、正月、大火災によって焦土と化し、疲弊しきった江戸の下町からこの物語のシーンが描かれ始める。年代を干支で丙牛(ひのえうし)と表現し、まず時代劇の世界に読者を引き入れる。かくて、悲惨な焼け跡に、「ひどく場違いな明るい声」が響き、この物語の主人公、雷電その人が「化け物じみた大男」でありながら「巨大な顔」に「出来損ないの福笑い」を浮かべ、集まってくる女たちの差し出す赤ん坊を抱き上げ、災厄払いを繰り返しながら登場する。ちょっと意表をつくアンバランスな情景は、映画的であり、円滑にこの世界に読者を引きずりこんでいく。それから雷電が死去する文政8(1825)年までのほぼ40年間、いわば江戸時代中期がこの読み物の歴史世界となる。 主人公、雷電為右衛門とその相撲関係者は、彼の終生の「友人」となった、江戸の一徹かつ生粋な鉄物商人、鍵屋助五郎の目を通して描かれ、同時にその背景は第三者の客観性に裏付けられていく二重構造で物語りは進んでいく。煩雑さがなく進行に無駄がない。 雷電が、形骸化しつつあった、当時の勧進江戸大相撲をどのように変え、再度隆盛させていったのか、その相撲が藩政の利害の中で次第に衰退していく流れを太い線としてダイナミックに、相撲う(すまう)芸の栄枯盛衰が語られる。雷電の強さとその相撲のあり方の躍動感あふれる描写は、秀逸。当時の相撲番付のなかに、つい一世代前まで四股名として使用されていた名前を見ることは懐かしくもあり、かくも長い闘いの伝統に四股名は位置づいているのかと驚嘆する。 江戸を取り巻く関東甲信越の百姓、農民が、藩の逼迫した財政再建の犠牲となり、江戸の都に逃亡してくる。こうした人々の生活感覚と、粋を気取る先住の江戸の人々との感覚の違いが、雷電に対する対応の極端な相違となって現れてくる指摘と活写は、見事。いわば助演者としての助五郎は、土地を捨て、逃亡し流入してきた民と、江戸の一般庶民の仲裁者的な役割を、雷電と彼が育てなおした相撲界への、共感と親密さを示すことをもって演じていく。 江戸中期から、江戸末期のとば口がみえ始める、いわば時代に次第に暗雲が立ち込めてくるこの作品の終章の時代が持った不安感を、気負うことなく、助五郎の悲劇と雷電の寂寥に満ちた死亡で締めくくることで言い表している。描き出された個々の事象の事実の有無を超えて、この時代の持つ生き生きとした大衆の息吹と、時代への絶望感を、ヒーローを通して実にうまく織り込んだ秀逸な歴史小説といえる。
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