第19回 2004/01/05 |
オオブタクサ、闘う |
書名:オオブタクサ、闘う ‐競争と適応の生態学‐ 著者:鷲谷いづみ 出版社:平凡社 自然叢書34 出版年月日:初版1996年10月21日 ISBN:4−582−5634−X 価格:2,000円 http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/ オオブタクサ。まずこの植物の名前を有名にしたのは、この植物が風媒花であるがゆえに、大量に撒き散らす花粉がさまざまな症状で発現する花粉症の源である、と説明されてきたことが第一に挙げられるでしょう。「公害草」と呼んで憚らない方もいるようです。私が駄犬をつれてよく訪れる、さいたま市見沼田圃の芝川沿いにも、春先に芽を出し、見る見るうちに成長を遂げ、真夏には、時として3メートルほどの背丈にまでなる、一年草のこの植物を見かけることができます。 私たちは、普段あまり意識せずに(あたりまえのように)、植物を生物と理解しています。一言で言って、この本の楽しさは、この「植物が生物である」ことの実態を、この植物固有の生態上の特性を観察することによって教えてくれる点にあります。別の言葉で言いますと、植物は、まず何よりもヒトの時間軸においては、動かないことによって動物と区別されるのですが、では動かない生物が「環境に対して何もしていない」のではなく、とりわけこの草は、むしろ積極的に環境に挑んでいる実相を教えてくれます。 明治維新政府によって取られた開国政策は、数多く動植物を日本の島々に開放しました。帰化植物と呼ばれる、この時代に入って来た代表的な植物のひとつが、鉄道の敷設とともに全国に拡散した、ヒメムカシヨモギ、所謂「鉄道草」でした。明治時代の帰化植物のチャンピオンがヒメムカシヨモギとすれば、第二次世界戦争後、昭和時代のそれは、北アメリカ大陸原産の帰化植物、このオオブタクサともいえるでしょう。この著作によれば、生息環境が類似していたこと以上に、戦後の農業の荒廃が大量の農産物の北米からの輸入を、ある意味では無管理的に促進してきたことにより、大量にオオブタクサの種子が大豆と共に導入され続けた経過が横たわっていると指摘しています。こうして本来生息域を限定しているこのオオブタクサが、人為的に日本各地に持ち込まれてきたのです。 広く知られているように、植物は日中、二酸化炭素を吸収し「光合成」を介して酸素を放出します。その「作業」の前提は、まず光、水、そして土中(若しくは水中)にある有機物です。一般的に二酸化炭素の欠乏に脅かされることがないことがないとすれば、植物間の生存競争はまず有機物を含む水の確保をめぐって行われます。根によって確保される水と有機物は、地中に均等に存在するわけではありません。不均等に存在する水を求めて、根は様々な収穫ネットを張り巡らすことになります。そのパターンは、その植物が生存できる地中環境を表現していることでもあります。 他方で、植物の生存の直接的な目的は、(酸素呼吸するヒトが期待する)光合成ではありません。その植物自体の種の保存のための種子の生産に尽きるといえます。そのために、時としては光合成自体をも厳しく制限することもありうるわけです。無制限な光合成のための広い葉は、太陽光線による過熱化をもたらすでしょうし、葉を支え、水を給水する支えとなる茎の肥大化を要請するかもしれない。こうして植物は、他の植物との競争と、環境の中での生存のため、自身の形態を最適化し続け、様々な形を固有化してきた進化の歴史を持っているに違いないのです。 オオブタクサがこうした一般論としての植物群の中で自己をどのように作り上げてきたか、ということがその機能と生息環境の相関性を一つ一つ解き明かしながら語られていきます。結論的に、自然界では、かくも「競争力の強い」オオブタクサであっても、その分散力の低さにより、全てを覆い尽くすほどの「スーパースピーシス」にはなりえない絶妙なバランス(著者はトレードオフと呼んでいますが)が存在することを見出します。しかしこの自然が作り出した絶妙なバランスは、ヒトの介在による環境墓によって、とんでもない「スーパースピーシス」を生み出す危険性が生み出され、その第一候補としてオオブタクサが存在することに警鐘を鳴らしてもうるのです。
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