第01回 2002/01/23 |
女盗賊プーラン |
著者:プーラン・デヴィ 訳:武者圭子 出版社:草思社 出版年月日:1997年2月20日第1刷 http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_4794207468.html この本は、フランス、フィクソ社の企画に応じて、プーラン・デヴィが口述した自身の半生を、二人の作家、マリーテーズ・クニーとポール・ランバリが整理、整頓した内容を、再度、全ページに渡り逐一本人に読み聞かせ、確認を取った後に、主人公の名前で発行されたものであることが、「上巻」冒頭に記されている。つまり、プーランは、1994年、仮釈放となりこの自伝の口述を行ったときには、読み書きができない存在であった。(彼女は、家事と生まれたばかりの妹の育児に追われ、小学校にも数日しか通うことができなかった。) 2002年の現在でも、インドの公式統計では、全人口が「約10億人」としか記されておらず(正式人口の把握が不可能)、また、インド大使館の公表するインド人の識字率も64%に留まっている。主要言語が18、方言が844あることは、この本を読む前提として知っていたほうが良いかもしれません。 この著作の中には、一切年代が出てこない。出てくる客観的なものは、川や丘や村そして都市などの名、自分のおおよその年齢(数え年のように思われる)、愛すべき家族と、憎むべき敵の名前だけ。高所から俯瞰的に自己を眺める眼はどこにも存在しない。 本人の成長につれて少しづつ変化していく目線の高さから見える、おぞましい風景と自己心理描写で貫かれています。映画的にいうことが許されるとすると、徹頭徹尾、自分の撮るハンディカメラに映る冷酷な映像を、その都度の心理状態で、あるときは狂人的に、ある時は打ちひしがれて説明する方法で、この「ありえない世界」が描かれています。記述者がとったこの方法は、ある意味では、本人が語ったことそのものかもしれませんが、それ以上に、語られた世界に、尋常ならざる悲惨な現実性を、付与し、それを疑う余地を残しません。 インドがイギリスから独立宣言したのが、1947年。そして1950年1月には、新たなインド憲法の制定により「カーストによる身分上の差別が禁止」された。そしてこの著作で描かれ始めるのは、プーランが10歳の頃、即ち1970年前後と思われる。「カーストによる身分差別」が、法律的に禁止されてから20年経った時点で、「カースト」は法ではなく、社会的規範であり、数千年に及び文化そのものであったことを、この著作は思い知らせます。 カーストは、絶対的神の前に、下層部が上層部にへりくだる事や、自分より更なる下層に倣岸に振舞うことによって維持されているだけではなく、上層部に対する打破不可能な絶望感の前で、同一カースト内部のより弱者をいけにえとすることによって、欺瞞的に延命を画策する、集団的かつ日常的なテロリズムを蔓延化させている。アチュート(不可触民)のマッラ階級に生まれたプーランとその家族が、同じ階級のそれも叔父の家族に徹底的にいたぶられることから悲劇の幕が開けられる。 貧困さゆえに、11歳で既婚暦のある20歳年上の農民との婚姻、日々の重労働と性的暴力。それからの逃避、結婚して戻ってきた娘プーランとその家族に対する帰省後の郷里の冷笑と村八分。半ば公然と(家族の前でさえ)行われる性的暴力。かくて、救いのヒンヅーの女神は現れることなく、いとこから、盗賊団(ダコイット)の汚名を着せられ最初の収監。収容所での地方官憲の更なる集団暴行。その後、曲折を経ての帰省後、今度は、そのいとこから依頼された盗賊団に誘拐される。 ダコイット内部でさえ、構成される盗賊の階級によって分化が促される。誘拐したダコイットの一方の、同一階級のリーダーに愛されることによってプーランはそこで初めて心の安らぎを瞬時的に与えられる。だがそれも束の間、愛する人は、ダコイットの他方の、より上位階級に属するリーダーの裏切りによって殺される。これまでに蓄積された怯えと悲しみが、ここで一挙に憎しみとなって暴発していく様が描かれていく。彼女はもはや自ら「盗賊の女王」と名乗り、復讐と、貧民への施しのための誘拐、襲撃、簒奪をいとわない。 この著作は、その後、プーランが司法取引をし、刑務所に収監され、何年かの歳月を過ごすところで終わる。プーランが収監された1983年は、奇しくもリチャード・アッテンボローが『ガンジー』でアカデミー賞を受賞(オスカーは、E.T)した年でもあった。 プーラン・デヴィがその後、1996年元女盗賊として、インド総選挙に出馬、当選、その後落選、サマジャワディ党に所属し、社会活動にいそしんでいたが、2001年12月、暗殺された模様である。 この著作の背景である1970年代、所謂先進諸国は、大量生産大量消費(スクラップアンドビルド)の60年代を終え、2度にわたるオイルショックからの出口を模索しつつあった。だがここで描かれる舞台には、電力さえ満足に備えることのできない全社会的な貧困と、個としての人間の尊厳が公然と踏みにじられる社会的規範が暴力で封じ込められる。そのあまりにも悲惨な原点を問い直す一助となるに留まらない内容をこの著作は秘めている。貧困とは何よりも心を貧困にさせることを思い知らせる一作であった。
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