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第52回 2005/2/01

1月はラスベガスで開催された、恒例のCESに参加した後、香港、東莞(中国・広東省)そして台北へと出張してまいりました。中国華南地帯へお出かけになられる方は既にご存知かもしれませんが、香港を経由して中国へ入国、出国する際にひとつ便利な方法を選択できるようになっています。

従来ですと、香港へ一旦入国手続きをとって到着した後、中国へ移動するためには、船であれ、汽車であれバスであれ、香港の出国手続きをとり、その後中国に入国するという一連の過程が必要でした。ところが今回、もし香港に入国する必要がなければ、入国手続きを取らずにそのまま香港の飛行場に隣接した港からフェリーで中国の華南地方の港に直接出発できるようになりました。今回私は、香港で用事がありましたので、入国手続きを取りましたが、中国からの帰りには、香港に入国する必要がありませんでしたので、広東省の太平港から直接香港飛行場行きのフェリーに乗り、香港への入出国手続きをスキップすることができ、大変便利な思いをしました。この地方へ旅行、出張される方がいらっしゃればこのような方法もあること知っておかれると便利かもしれません。

さて、台湾の新聞で面白い記事を目にしました。韓国の首都、ソウルの漢字表記をめぐる問題です。ご存知のように、李朝朝鮮時代の首都ソウルは、漢字表記は、「漢陽」、その後「漢城」とされました。日本・明治政府が「日韓併合」の後、その漢字を「京城」と改名。第二次世界戦争後、韓国の独立とともに、韓国政府はハングル表記のソウルのみを使用。韓国国内での漢字表記をやめました。日本ではそれに従いカタカナで、「ソウル」と表記したのに対して、中国世界(中国、台湾、香港)では戦後今に至るまで、一貫して「漢城」を使用してきました。例えば、飛行場での行き先などでよくこの漢字をみかけます。しかしこのたび、韓国政府は、ソウルに当たる漢字として、読みのよく類似した「首爾」を使用するよう漢字使用国に要求しはじめたのです。これに対し、中国、台湾ともに極めて否定的な対応を見せています。

どうもこれには、韓国・中国間の「歴史認識」をめぐる軋轢が背景となっているようです。東南アジア諸国、特に韓国、中国の日本の歴史教科書での第二次世界戦争をめぐる表記方法に対するクレームは、時として日本のマスコミで取り上げられることがあります。しかし、実は韓国・中国間の両国関係の歴史を巡る論争にはもっと根深いものがありそうです。

中国の過激史論家の認識では、既に紀元前108年、漢の武帝の朝鮮半島における四郡配置(楽浪、臨屯、玄菟、真番)以来、日本の「日韓併合」に至るまでずっと朝鮮半島は中国の「版図」であったというものであるようです。そこまでいわずとも、穏健派は、三韓時代以前はさておき、それ以降、少なくとも李氏朝鮮が、唐から、清に至る長い期間、中国の時の王権に「臣従」の礼をとってきたことをもって、韓国は中国の支配下にあったと中韓関係の歴史を総括します。しかし「臣従の礼」は、独立王国としての外交政策であって、隷属国としてでないことは事実ですし、これをもって版図であったとされることに韓国の歴史学者が、宜しからざる感情を持つのは無理のないことと思われます。

ここに、中国文化圏からの当初からの独立を鮮明に表示したい「首爾」と、中国文化の影響の下に朝鮮半島が成立したことを誇示したい「漢城」の対立が象徴されています。この問題は、「Seoul」でも「ソウル」でも解決となりません。李朝時代の1443年、独自の表音文字として創作された訓民正音、ハングルを第二次世界戦争後までの5百年間、実際には使用しなかった(1910年以降の日韓併合時代には不可能であったにせよ)、そしてまた、第二次世界戦争後は、逆に日本語と漢字の一切を使用禁止にしてしまい、他国が自国の首都を漢字表記であらわすことに何の興味も払わなかった韓国政府の長年の怠慢の付けがここに来て現れているようにも思われます。

またハングルは、中国朱子学思想(理念というべきなのでしょうか)の陰陽五行説に基づいてはいますが、どうも明朝崩壊後、清朝以降に対する李王朝の卓見は、自らを中国大陸の儒教(朱子学)理念の正当な継続者を持って任じていたようですから、この時代にこそ自らの首都を漢字表記で改めるべきだったのかもしれません。決めるべきときに決めるべき事を決めないと、まさに後世に憂いを残す一例ともいえるでしょう。わが国の為政者のこの間の「大改革」がその二の舞となるのではないかと疑念を抱くのは私だけでしょうか。