桜もすっかり葉桜となり、いたるところで新緑が身にしみる季節です。来るべき5月22日は、CECにとりまして中興の祖である、故高田甫社長の3回忌となります。私は、30年以上に上るサラリーマン生活の中で、合計5名の社長に仕えさせていただきました。その中で最も長い、18年間を、高田氏を社長としてCECの仕事に携わることができたことを、幸せにも、誇りにも感じさせていただいております。
1918年(大正7年)10月、鳥取県生まれ。作り酒屋の長男として生誕するも、幼少にしてご尊父が死去され、御母上の手でご成長されたと聞き及んでおります。現在の小樽商科大学の前身、小樽高等商業学校を卒業された後、1940年(昭和15年)松下電器産業へ入社。戦後松下電器から、三洋電機が独立した流れの中で、1950年(昭和25年)松下電器より転籍。三洋電機・歌島工場長等を歴任後、1965年(昭和40年)7月中央電機に、代表取締役専務として出向。それから4年後の1969年(昭和44年)12月、代表取締役社長に昇進。私が入社したのは、それから1年3ヵ月後(1971年3月)のことです。
こうして見ますと、高田甫氏が会社を代表する立場にたたれたのは、まだ46歳であり、社長就任時でも、50歳の若さであったことがうかがわれます。これは、私の憶測に過ぎませんが、経営危機にあった当時の中央電機は、その当時でも既に11年間の歴史と専門メーカーとしての誇りを持っていたわけでしょうから、一般家電メーカーである親会社より出向してきた、若き経営者を無条件で受諾し、最大限の協力を惜しまなかった、とはとても思えません。一方で会社の再建に心を砕き、他方で、旧来の従業員との関係修復と、協力関係の再構築を図っていったことでしょう。
大学を卒業したばかりの私は、22歳。ある意味で怖いもの知らずでもありました。当時の高田社長の最初の印象は、外注業者に対してなんと頭の低い方だろうという思いの一方、他方で、自分の勤務する会社の社長には、もっと尊大に対応して欲しいなどと不遜なクレームを心中秘していたものです。しかし、物を作るという側面では、アッセンブリー業者でしかない当社は、品質のよい部品を適切な時期に受けることができなければ、業務のスタートが切れないわけですから、 買う立場とはいっても、本質的には売る立場と同等なものです。ましては、その後の経緯の中で知りましたが、高田氏が会社再建の道のりの中では、幾多の業者に、支払い上の無理を要請せざるを得なかった事実もあったようです。
また、氏の話の中で、「象は蟻を殺せない」という比喩がありました。直接的には、ライオンや虎は、象にとっては敵ですし、怒れば踏み潰すことも可能でしょう。しかし蟻のような極小の存在は、殺そうにも小さすぎて不可能だということです。つまり、自社ブランド製品の製造販売だけでは存立できず、他メーカーの製品のOEM供給をも業務体系に入れる、CECほどの小さいメーカーは、その意味で本質的な競合相手は存在せず、いかようにでも自分の生きる道を見つけることができるとおっしゃりたかったのでしょう。
この言葉を現在私は、次のように言い換えさせてもらっています。販売の不振を景気の悪さに求めるな。景気の悪さに影響を受けるほど、(上場している数多くの大メーカーほど)当社は大きな存在ではないと。
また、会社経営に対して、氏は常にキャッシュフロー管理を最重要課題として念頭におかれていたようです。経理業務に携わったことがありませんので、具体的な管理技法を伝授する機会には恵まれませんでした。しかし端的に、「借金をしても倒産はしないが、損益計算上の黒字だけでは、倒産しないという保証にはならない。要は、金のあるなし。」
これは、三洋電機から出向して中央電機に赴任して以来の氏の信念でもあったようです。会社経営者として、銀行保証に経営者の個人保証をいれるという事実関係の上でこそ、経営者は、会社と生死をともにする立場に立てるし、そうでなければ多くの部下と、外注先、お得意先に対する信頼を確保できないと信じておられたようにも思います。大げさではなく、親会社を頼りにせず、自己の存在を全て賭けたからこそ、厳しいキャッシュフロー管理の哲理に立てたものと思われます。
自ら厳しい道を選択しつづけてこられた高田甫氏も、1990年に広々とした新工場を設立、1992年新事業として三洋電機より自動販売機の生産受注を実現した後、1994年に現役を引退されました。その後、悠悠自適の生活を楽しまれ、2000年5月22日ご逝去されました。享年84歳。
奇しくも、三洋電機・当社担当首脳とCEC独立をめぐって協議に入り、ほぼその方針で進めようと方針決定されたのがまさにその前後でした。CECの健全な存在と、発展が何よりの手向けになると信じている毎日です。