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第007回 2006/01/20
懐かしのニューオリンズとジョージ・ルイス

DISC7

米ヴァーヴ MGV-1021
ジョージ・ルイス
『ドクター・ジャズ』

ロイヤル・テレフォン/イントゥー・イーチ・ライフ・サム・レイン・マスト・フォール/チャント・オブ・ザ・タキシードス/ザ・オールド・スピニング・ホイール/ビューグル・ボーイ・マーチ/219ブルース/ドクター・ジャズ/オー・メアリー・ドント・ユー・ホィープ

ジョージ・ルイスと彼のオーケストラ
G. ルイス(cl), A. アンダーソン(tp), R. ミールケ(tb), J.ロビショウ(p), A. パパジョウ(b), J. ワトキンス(d)
(録音:1959年10月 ハリウッド)


 2005年8月末、世界で最も豊かで科学や技術の分野でも他を圧倒する文明大国、アメリカの南部の町、ニューオリンズを襲ったハリケーン「カトリーナ」による被害の甚大さは 我々を驚かせた。米政府の対応の遅れなどもあったようだが、人口46万の由緒あるこの町は、運河の決壊により、一瞬のうちに8割が水没し、死者や行方不明者が、正確には何人になるかすら判らない壊滅的大惨事となった。
 もともとフランスやスペインの植民地だったこともあり、独自の文化を育んできたニューオリンズは、ジャズ発祥の地として知られるが、ブルース、R&B、ソウル、ロックの分野でも常に中心的役割を果たしてきたし、その意味では、我々音楽ファンにとって、今回の大災害はこれからも長い間、記憶されていくのであろう。この被災地に向け世界中から、とくに音楽関係者や団体から支援の手が差し伸べられているようで、少しづつにせよ復興に向かっているのは喜ばしいことであるが・・・

 筆者にとっても、ジャズの町、ニューオリンズは、アメリカ滞在時、何回も訪れた大変に懐かしい町として脳裏に焼き付いている。かつてフランス人やスペイン人が居住した区域、優雅なアイアン・レースのバルコニーのある建物が軒を連ねるフレンチ・クォーターの中心、やや猥雑を極めたバーボン・ストリートに立ち並ぶレストランやオイスター・バー、ジャズ・クラブに入って、この地の名産、やや大振りの天然の生牡蛎を肴に、地ビールやワインを飲みながら、本場のジャズ演奏に耳を傾ける。これがニューオリンズの楽しみ方だった。当時は、アル・ハート、ピート・ファウンテン、デュークス・オブ・デイキーシーランド(DOD)など、皆現役のパリパリで、お互いに技とパワーを競い合いつつ、この界隈を一層盛り上げていた。
 まだ宵のくちだと、バーボン・ストリートからちょっと入った場所にあるプレザベーション・ホールへと繰り出すことになる。外側はまるで倉庫のようだが、木戸銭1ドルをザルに入れて中に入ると、そこはもう別世界。かつての日本の小学校の教室みたいに質素な会場では、エアコンもなくムンムンした中で、古老プレーヤーたちも混じって、古めかしいトラッド・ジャズを懸命にプレーし、聴衆もやんやの大喝采。ジョージ・ルイスや、キッド・トーマスなども、いささか老いの陰りはあったものの、それでもここではビッグ・ネームで、彼らの演奏は常に会場を満員にしていた。
 筆者がジョージ・ルイスを聴いたのは、実はこのプレザベーション・ホールが最初ではない。彼は、1963年以降、しばしば、日本も訪れていたし、ニューヨークやカリフォルニアでも、何回か聴く機会があった。しかし、彼の故郷ニューオリンズで、しかもすぐ目と鼻の先で聴く演奏はまた格別だった。演奏もアット・ホームだったし、合間には客と冗談なども言い合っていたが、一旦演奏になるや生き生きと表情を取り戻した。

 ジョージ・ルイス、本名はジョージ・ルイス・フランシス・ゼーノ。1900年7月、かのサッチモより9日遅い13日のニューオリンズ生れである。
 クラリネットを見様見まねで覚えて14歳でプロ・デビュー。紅燈街ストーリービルの閉鎖などで、ジャズの中心が多くのジャズメンとともにシカゴなど北部に移って以降も、ニューオリンズに留まり、バンド活動を続けるが、やがてその仕事もなくなり、沖仲仕をやりながら日々の食い扶持をつなぐようになる。彼が再び脚光を浴びるのは、“デイキシーランド・リバイバル”以降だった。かつて一緒に仕事をしたバンク・ジョンソンらとともに、生まれて初めてニューオリンズから出るや、今度はレコーディングやコンサートに忙しく振り回されることになる。
 バンクがリーダーのバンドでも、ルイスのプレーはキラリと光ったし、事実、彼がバンクのバンドの理論的指導者でもあった。ここに目をつけたビル・ラッセル、1943年以降、ルイスをリーダーにしたアルバムを発売するが、以降リバイバルの波に乗って、夥しい数のルイスのレコーディングが続くことになる。
 このころのルイス、まだ技術的にも冴えていた。彼の演奏の特徴は、徹底してブルースに基づくもので、トーンも暖かく、リズムやスイング感も伝統的なニューオリンズ・スタイルを決して崩さず、その中に深くて敬虔な宗教的感情が込められていた。そして、何よりも自然で無理なく、音楽が流れていくのである。ルデイ・ブレッシュによれば、「伝説的奏者ジョニー・ドッズ以来最も素晴しいクラリネット奏者」ということになる。
 中でも、名演とされるのは、1953年サンフランシスコで録音の「ドクター・ジャズ」「オン・パレード」「シンギング・クリネット」というデルマー・レーベル3部作、同年録音のオメガ・レーベル、1954年の「オハイオ・ユニオン」、同年録音の「コンサート!」(ブルーノート)などであろうか。

 そんな中で、ルイスこの1枚となれば、中々選択が難しい。結局、ニューオリンズとプレザベーション・ホールの復興を祈念して、アトランティック盤「ジャズ・アット・プレザベーション・ホール」と何れにするか迷った挙句、かつてこのホールの入り口で購入したという理由で、米ヴァーヴ・レーベルの「ドクター・ジャズ」を取り上げることにした。
 それにポーラ・パワーズの描くジャケット絵が面白い。ニューオリンズの街中を行進するジャズ・フューネラル(葬式)の光景である。この町では、名士や、ミュージシャン、あるいは そのパトロンが亡くなると、葬儀の行われる教会までの間や教会から棺を埋葬する墓地までの間をこうしたバンドが先頭になって賛美歌などを演奏しながら行進し、その後に行列が続く。墓地での埋葬が終わると、がらっと雰囲気も一転して、例えば、「聖者の行進」などを演奏しながら、再び行列は街中に戻ってお開きとなるが、全部で数時間はかかる。ルイスによれば、彼は生涯に500回以上、こうしたバンドで演奏したというが、周りの人には、「もし自分が死んだら, 是非こういう形であの世に送って貰いたい」と口癖のように言っていたそうだ。
 さて、このタイトル曲の「ドクター・ジャズ」。このレコードでは、ドラムスのジョー・ワトキンスがヴォーカルで加わる。文句は「ハロー、セントラル(電話局)!ドクター・ジャズを差し向けてくれ!」で始まるのだが、ジャズには、医者以上に精神的苦痛や障害を吹き飛ばしてくれる特効薬的な効果もありそうである。ジャズの初代王様、キング・オリバーの作だが、同じニューオリンズ出身ジェリー・ロール・モートンの吹き込みで有名になった。ジョージ・ルイスもこの曲を得意とし、何回も録音したが、今こそ、この町にとって「ドクター・ジャズ」が必要とされる時期はないのかもしれない。
がんばれ!ニューオリンズ!!

P.S.
 小泉八雲で知られるラフカディオ・ハーンは、日本に来る前の1890年代、このニューオリンズのバーボン・ストリートの一隅に住んでいた。その建物もそのまま残っていて、筆者が訪れたころは、ポルノ・ショップだったが、今はどうなっているのだろうか。年中不夜城だったこの亜熱帯の賑々しい界隈から、静かで冬寒い山陰の城下町・松江に移り住んだハーン、一体、どういう感慨を抱いたのであろう。