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第057回 2007/09/07
エルヴィスと夢の島ハワイアン音楽の楽しみ

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日ヴィクター SX−64
オリジナル・サウンド・トラック
エルヴィス・プレスリー主演映画『ブルー・ハワイ』

ブルー・ハワイ/アロハ・オエ/ノー・モア/好きにならずにいられない/ロカ・フラ・ベイビー/月影のなぎさ/私の恋人/ハワイアン・サンセット/ビーチ・ボーイ・ブルース/愛の島/ハワイアン・ウエディング・ソング など計14曲
エルヴィス・プレスリー(vo)

(制作 1961年)


 今やハワイといえば、海外旅行の中でも極く気楽に行ける観光地の代表か、暮れから正月にかけて芸能人やタレントが大挙して繰り出す避寒地の代名詞みたいになってしまった。
 しかし多分団塊の世代も含めて我々の年代は、現在でも梅雨が明けて暑い夏の日がやって来るころになると何故か決って或る種の甘い懐かしさを伴いつつ、当時はとても容易くは行けなかった若き日の憧れの地ハワイをイメージする人も多いのではなかろうか。
 遠くダイヤモンド・ヘッドの見えるワイキキの浜辺、潮風にそよぐヤシの木陰、果てしなく広がる太陽いっぱいの青空とエメラルド色に輝く珊瑚礁の海、やがて真っ赤な夕日が沈んで宵闇が訪れるや、松明の灯る浜辺で繰り広げられるハワイアン音楽にのってゆったりと踊られるフラダンス・・・。こうした情景が我々の想い描くハワイの定型的イメージであった。
 半世紀も前の昭和30年代、都心のデパートなどの屋上では何処でもビアー・ガーデンがオープンされ、特設ステージでは、これまた定番のように4〜5人の日本人グループによるハワイアン音楽が演奏されるのだが、安サラリーマンだった我々は、ジョッキーを傾けながら、太平洋の遥か彼方の夢の島ハワイへの想いをいやが上にも膨らませたものであった。当時有名だったサントリーのコマーシャル「トリスを飲んでハワイへ行こう」というキャッチ・フレーズの何と魅力的な響きだったことか。
 昨年、かつては大いに繁栄したにも拘らず、廃坑とともに見る影もなくなった炭坑の町が、「フラダンス」で町おこしをすべく挑戦し見事成功させた実話を題材にした映画「フラガール」(2006年制作、李相日監督作品)が大ヒットした。この映画に岸部一徳演じるこのプロジェクト推進役の、あまり風采の上がらない支配人(中々好演!)が登場するのだが、彼の頭の中にいつも去来し高鳴っていたのは、若かりしころの憧れの夢の島「ハワイ」だったのではあるまいか。
 ちなみに、この映画で音楽を担当し、終始ウクレレを弾いているのは、今やハワイの人気ウクレレ奏者ジェイク・シマブクロである。

 ということで、前置きが少し長くなってしまったが、頃は良し、今回は、エルビス・プレスリー主演のハワイを舞台にした映画「ブルー・ハワイ」(1961年製作、ノーマン・タウログ監督作品)を取り上げてみたい。実は、この映画、1937年製作のビング・クロスビー主演映画「ワイキキ・ウェディング」のリメイク的映画であり、前作が30年代における第1次ハワイアン音楽ブームの契機になったように、この映画も戦後アメリカ本土を中心に第2次ハワイアン・ブームの火付け役として大ヒットした映画である。
ストーリーは、何とも他愛ないものではあるが、一応以下略述したい。
 まるでエルビス本人のごとく2年間の軍隊生活を終えて、故郷ハワイに戻ったエルヴィス演じる若者チャドが、家業のパイナップル事業を嫌って、ガールフレンド・マリーが勤める旅行会社に職を求める。早速舞い込んだ初仕事が美人教師と女学生4人のガイド役で、色男チャドを巡って、マリー、美人教師とつっぱり女学生エリーの3人による恋の鞘当てが繰り広げられる。一行を連れてハワイ一周旅行の途中、やくざ風男との喧嘩やカーチェイスなど大乱闘の末、旅行会社をクビになるなど、風光明媚なハワイを舞台に次々に事件が起こるのだが、最後は結婚に反対していた母親も了承。晴れて本命のマリーと結ばれ、新しく職も得て目出たし目出たしというもの。当然のことながら、いずれもハワイアン中心の名曲、「ブルー・ハワイ」「アロハ・オエ」「月影のなぎさ」「ハワイアン・サンセット」「ハワイアン・ウェディング・ソング」など14曲が、次々とエルヴィスの甘い声にのってご機嫌に歌われるという趣向である。
娯楽映画としても結構楽しめるし、少なくとも、彼が主演した映画では、一番出来の良い映画ではなかろうか。

 実はプレスリー、1958年3月、ロックンロールが絶頂期のとき当時アメリカにあった徴兵令により兵役に就き、60年3月まで、丸2年間、事実上音楽活動を停止して軍隊生活を送った。 
 除隊後は、マネージャー、トム・パーカーの方針もあって、61年3月のハワイでのチャリティー・コンサートを最後に、以来68年までの丸7年以上、コンサート活動を一切止めて映画出演とそのサウンドトラック盤吹き込みに専念することとなる。その間、出演した映画本数は、この「ブルー・ハワイ」を含め、何と33本。再び、ステージに戻ったのは、1968年のクリスマス・ショーだった。
 以降69年から彼が他界する77年8月までの期間は、今度は年平均150回を超えるコンサート出演をこなしていった。これまた超人的なステージ回数であり、いろいろな意味で彼の死期を早めた要因ともいわれる。直接の死因は心臓マヒとなっているが、僅か42歳の若さでの壮烈な死であった。ロックンロールの王様、エルヴィスを巡っては、当然のことながら生前より毀誉褒貶の類いがあとを絶たなかったが、死後明らかになった事実の一つとして、生前彼が人知れず行っていた多くの病院、施設などへの莫大な寄付行為が人々を驚かせ、感動させた。
 エルヴィスが逝って今年でちょうど30年。死後においても一向に人気は衰えず、相変わらず大勢のファンによる彼の最後の地、グレイスランド詣でが続いているようだが、このへんはこのコラムの本題ではないので、また別の機会に譲りたい。

 さて、ハワイ音楽というのは、広大な太平洋に浮かぶメラネシア(北西部)、ミクロネシア(南部)ポリネシア(東部)など数千の島々で広く行われていたオセアニア(大洋州)音楽の中でも、東太平洋に点在するポリネシア北部のハワイ諸島の原住民による民族音楽のことである。
 このハワイ一帯の住民はポリネシア系カナカ族が中心で、元々は東南アジアをオリジンとして5〜6世紀以降、サモアやタヒチを経由してこの地へと移住し、1893年にアメリカの属領になる前は、18世紀末からカメハメハ王朝により統一・支配されていた。
 伝統芸能としてのオリとかメレと呼ばれたチャント(詠唱)やそれを踊りとして表現したフラ(メレとフラの合体をメレ・フラ)は、その宗教儀式のためのものだったし、使用楽器は、カラアウ(2本の棒を打ち鳴らす)、ウリーウリー(ひょうたんのガラガラ)、イプ(ひょうたんで地面を打つ)、パフ(大太鼓)、プーニウ(やしで作った小ツツミ)と呼ばれる打楽器類と、ホキオキオ(ひょうたんの鼻笛)、ウラハラ(竹笛)、プー(ほら貝のラッパ)などの笛類が中心だった。
 西洋音楽は、1778年、キャプテン・クックのハワイ発見以来、急速に移入され、1816年(カメハメハ1世の時代)には、早や西洋楽器によるバンドが存在していたと云われる。20年に、最初のプロテスタント宣教師が到着し、キリスト教とともに賛美歌がもたらされ、30年代には、後のロイヤル・ハワイアン・バンドとなるキングス・バンドが設立。19世紀後半のカメハメハ5世の時代には、交響曲やオペラ上演も含め、本格的な洋楽が導入された。しかし民族音楽の面ではむしろ第7代ハワイ王カラカウアの治世(1874〜91)に、30年以来禁止されていたフラの復活を初め、伝統芸能の保護・育成が計られ、引き続き、彼の妹でありハワイ王朝最後の支配者となったリリウオカラニ女王は、名曲「アロハ・オエ」や「プイア・カ・ナヘレ」の作曲者としても知られる。その頃、ポルトガルの弦楽器ブラギーニャからウクレレが生まれたり、ジョセフ・ケククによりハワイアン・スティール・ギターが開発された。
 ハワイ音楽は、メロディやハーモニーは比較的単純だが、フラ調の独特なリズムに特徴があった。それまでは、このフラのリズムが基本だったが、20世紀に入るや次第に廃れて、流れとしてはアメリカ本土のポピュラー音楽やジャズの影響を受けつつ、アメリカナイズされたハワイアン音楽になっていく。とくに第2次大戦前後からは、伝統的ポリネシア音楽にアメリカン・ポップスがミックスされた「ハパ・ハオレ」が大流行し、アルフレッド・アパカは、その大スターだった。ハワイのラジオ番組「ハワイ・コールズ」が全盛を極めたのもこの頃である。やがてハパ・ハオレも人気を失い、60年代以降、この「ブルー・ハワイ」などが導火線となって再びコンテンポラリーと呼ばれる英語によるポップス系ハワイアンが流行する。インヴィテイションズ、ドンホー、クイ・リーといったアーティストがこのころ活躍した。
 しかし、こうした外国人やアメリカ本土からの観光客をターゲットにしたエンターテインメント中心のハワイアン音楽一辺倒の時代から70年代に入るや、ハワイ語による伝統的ポリネシアの民族音楽を見直そうという気運が生まれた。いわゆる「ハワイアン・ルネッサンス」であり、この頃から80年代にかけて第3次ハワイアン・ブームとも云われるが、その中心的人物が、ギャビー・パヒヌイだった。ギャビーは、またハワイアン・ギター特有の奏法、スラック・キー・チューニング(スラッキー・ギター)の名手でもあった。その影響を受けてサンズ・オブ・ハワイ、ピーター・ムーンとザ・サンデー・マノアやブラザーズ・カジメロ、ケオラ&カポノ・ビーマー、マカハ・サンズなどが続くが、現在では、アイランド・コンテンポラリーともいうべく、ケアリー・レイシェル、オロマナ、テレサ・ブライト、セシリオ&カポノ、ザ・ハワイアン・スタイル・バンド、ハパ、イズラエル・カマカウイヴォオレ、アレア、ナ・レオ・ピリメハナなどが活躍している。
 このようにハワイアン音楽は、大まかな流れとして伝統的ポリネシア音楽とアメリカン・ポップスの間を行きつ戻りつしてきたのが、その歴史であった。しかし現在では、このアイランド・コンテンポラリーを中心に伝統的民族音楽を含め、ハパ・ハオレ、英語によるポップス系コンテンポラリー、90年代初めに流行ったレゲエとハワイアンのミックス「ジャワイアン」、さらに「キ・ホアル」と呼ばれるハワイアン・インストゥルメント音楽などが入り乱れて百花撩乱といった様相を呈しているようだし、日本では、映画「フラガール」の影響もあってか、フラとウクレレ関連のブームといったところである。
 ハワイへ行かれるチャンスがあったら、是非、これらのライブを覗きながら、ヴァラエティに富んだ各種演奏に直接触れてみるのも、ハワイ滞在に一層彩りを添えることになるのではなかろうか。