第048回 2007/05/10 |
「未完成交響楽」ー 懐かしの名画と養母の思い出 |
米コロムビア MS 6218 ニューヨーク・フィル(第8番)&コロムビア交響楽団/ブルーノ・ヴァルター(指揮) (録音:1958年3月3日、ニューヨーク(第8番)& 1960年2月26日ー3月3日 ロス・アンジェルス) |
シューベルトの「未完成」は、筆者にとって10代初めの頃からブルーノ・ヴァルター指揮ウィーン・フィルのSP盤で慣れ親しんだ懐かしい曲である。偶々、家にあった古いレコードを旧式の蓄音機にかけながら、一体何回聴いたことであろうか。そして今でもこの曲に接すると何故か亡き養母の面影とともに、ハンス・ヤーライ、マルタ・エゲルト主演、ヴィリー・フォレスト監督によるドイツ=オーストリア映画「未完成交響楽」(1933年制作)の場面が蘇ってくる。戦前、大阪生れの亡母が20代のころ、所属していた朝日コーラス(大阪朝日新聞社後援による合唱団)の仲間たちと数えきれないほどこの映画を観に行った話や、そのロマン溢れるストーリーの細かな一部始終を、これまた一体何回聞かされたことであろうか。 確かにシューベルトは、史実においても名歌手カロリーネ・ウンガーの父親の紹介でエステルハーツィー伯爵に紹介され、音楽教師として雇われたのは事実であり、1818年(21歳)と24年(27歳)の2度にわたって同家の2人の令嬢姉妹マリーとカロリーネを教えるためハンガリーのツェレスにある館を訪れて、それぞれ4〜6ヶ月程ここに滞在している。最初の訪問時はカロリーネも未だ11〜12歳だったが、2回目のときは年頃になっていたこともあり、双方向かどうかは不明だが、プラトニックにせよ恋愛関係の可能性は大いにあった。しかし所詮2人は結ばれぬ運命であり、シューベルトにとってカロリーネは一層美化された形で後々まで長い間憧れの存在であり続けたようである。 ところで、この未完のロ短調交響曲であるが、オリジナルのピアノ・スコアに記された日付によると、1822年10月に着手されている。23年4月、シューベルトは、グラーツのシュタイアーマルク音楽協会の名誉会員に推挙され、その返礼としてこの作品を贈るべく、自筆譜が仲介者である知人のアンセルム・ヒュッテンブレンナー宛に発送されたのが翌24年のことだった。ただし、そのとき完成されていたのは、最初の2楽章 即ち第1楽章(アレグロ・モデラート)と第2楽章(アンダンテ・コン・モト)までだったので、仲介者は残りの部分が届くのを暫く待っていた。多分残りは後で送るということだったと推定されるが、この自筆譜の経緯についても謎が多い。その後、シューベルトから残りの部分が送られたという記録もなく、結局この交響曲は以来未完成のまま、まったく忘れ去られた状態になったいた。 では、一体、本当のところ何故未完に終わったのであろうか。作曲家の故芥川也寸志氏の推理が面白いのでここに引用させて頂きたい。 それにしても、この作品、未完ながら文句なしの名曲である。第1楽章の導入部はチェロとバスのユニゾンによる「まるで地下の世界から沸き上るような」やや暗いモティーフで始まるが、これが展開部やコーダ、さらに第2楽章の冒頭にも現れ、この作品全体の基調をなしている。続いて小波のような第1主題と憧憬を思わす第2主題が絡むソナタ形式による第1楽章を経て、美しい旋律が次々と現れる2部形式による第2楽章では、とくにオーボエ、クラリネットと受け継がれる第2主題がとても印象的である。作品全体を支配する天国的な響きはロマンと叙情にあふれており、ブラームスが述べているように、形式的には確かに未完かもしれないが、内容的には十分完成された作品とするのが妥当な考え方かもしれない。現にあらゆる交響曲の中でも、この未完の作品は演奏頻度においてもトップ・クラスであるのが、何よりの証左といえよう。こうなると、シューベルトは、敢て完成させずに未完のままにしておいたという説もかなり説得力がありそうだ。 さて、この作品が生まれた1822年という年、年齢的には未だ25歳であるが、31歳で他界したシューベルトにとっては円熟期といってもよい。この「未完成交響曲」以外に、「死の音楽」「去っていった人に」「出会いと別れ」「さすらい人の夜の歌」などの多くの歌曲、ミサ曲変イ長調、そして「さすらい人幻想曲」などを作っている。そして、この同じ年に彼には珍しい「ぼくの夢」という自伝的寓話を書いているが、この寓話とこれら作品群との関連についても種々の議論がなされている。教師となるよう強制する父親との葛藤、10代での母の死、愛と死と孤独についての考えなどが自伝的に記されたものだが、この寓話には、とくに彼自身の人生や家族に対する誠実な姿勢とともに 孤独な”さすらい人”への強い共感が滲みでているようだ。家族思いで兄弟仲がよく、友情を重んじ、終生独身のまま30年そこそこの短い人生を駆け抜けたシューベルトの実像と耽美的ではあるが、どこか淋しげで暗い影に被われた「未完成交響曲」。この2つを繋ぎあわせているのが、「ぼくの夢」であるように思われる。 蛇足ながら、この寓話にも触れられているように、シューベルトは15歳のとき最愛の母を失っているが、翌年父が後妻に迎えた比較的若かった養母アンナに対しても終生姉のように親しく接している。私事ではあるが、筆者も少年時代、終戦直後に実母を亡くした後、成人するまで分け隔てなく育ててくれたのが、最初に記した養母であった。作曲家シューベルトのことが殊更身近な存在に感じられるのも、或はそうした境遇における類似性によるものかもしれないと思ったりする。 演奏はLPということであっても、数多の名演の中から、やはりブルーノ・ヴァルター指揮ニューヨーク・フィルを採りたい。格調の高い第1楽章に続く第2楽章も、テンポは他の演奏と比べて、かなり遅いという感じはするが、てんめんとした情緒性において全く比類がない。これぞウィーンという感じだったSP時代のウィーン・フィルとの名演を想起させる。カップルされている交響曲5番のほうも 同じヴァルターによる名演として知られたもの。 |