ジャズ史上、トランペット(厳密に云えばコルネットとかフリューゲルホーンも含め)という楽器は、常にロイヤル・インストゥルメントとして脚光を浴び続けながら現在に至っている。先ずジャズを始めた男(と自ら誇らしげに名乗った)バディ・ボールデンがそうだったし、続いてキング・オリヴァー、”サッチモ” ことルイ・アームストロング、シカゴ・ジャズの天才といわれた夭折の白人奏者ビッグス・べイダーベック、ビッグ・バンド時代では、レックス・スチュアート、クーティ・ウィリアムス、クラーク・テリー、ヘンリー”レッド”アレン、そして、ロイ・エルドリッチ。この辺からモダン・ジャズ・シーンに入るが、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ドーハム、そして、マイルズ・デーヴィスへと至る。
何といっても、この楽器は、他を圧倒して高らかに鳴り響く輝かしい音色にこそ特徴があり、この際立った音色の故に、常にリード楽器として宿命づけられてきた。従って、歴史上輩出した幾多のトランペット奏者たちは、それに相応しいテクニックとか奏法を絶えず開拓し発展させてきたし、当然、人気の点でも他の奏者を圧することとなったのである。
マイルズ以降のトランペッターといえば、アート・ファーマー、チェット・ベーカー、ドナルド・バード、サッド・ジョーンズ、リー・モーガン、ブッカー・リトル、フレディ・ハバード、更にフリー・ジャズのドン・チェリーなどが続くことになるが、中でも抜群のテクニックとそれ以降の影響力という点で他を凌駕しているのが、”ブラウニー”ことクリフォード・ブラウンだった。
上記の中で、アートとチェットはマイルズの支配下にあるが、こと技法について云えば、ドナルド以下の奏者のほとんどが、ブラウニーの強い影響を受けているといってもよい。(勿論、部分的にはディジーやマイルズの影響も認められるが)
しかも、この若くして亡くなった天才トランペッターの場合は、単に音楽上の功績ばかりではなく、その人間性においても、ジャズ・ミュージシャンの間で広く敬愛の対象だったのである。
例えば、一緒にプレーしたジャック・モントローズは「いま振り返ると、私と一緒にいるとき、クリフォードはいつもトランペットを口に当てていた。ともかく彼は音楽に打ち込み、すべてを捧げており、そのうえ規則正しかったよ。ヘロインがミュージシャンの勲章のように思われていた時期に、彼は決して麻薬に手をださなかったし、タバコも酒もやらなかった」また、ソニー・ロリンズも、かつてはハイにならないと良い演奏は出来ないと信じヘロインに走ったりしていたが、ブラウンとプレーするようになって生活態度を一変する。「クリフォードは私の人生に深い影響を与えた。彼は、正しいクリーンな生活を送っていても尚、同時に立派なジャズ・ミュージシャンでいられることを教えてくれた」と述懐している。また、クインシー・ジョーンズは「ブラウニーは自己に厳しかった。どこまでも深くジャズに入り込むために、いつも懸命に努力していた。・・・人間としての、ミュージシャンとしての完璧さと自己鍛錬、その見本が彼だった」
彼をよく知るジャズ評論家、ナット・ヘントフによれば、「ジャズ界で長年過ごしてきたが、これまでブラウンについて悪く言う人間にはひとりも会ったことがない。彼は開けっぴろげで、他人に対する悪意のかけらもなかった」さらに、評論家カタラーノはこれを受けて「ヘントフのコメントは、ブラウンが彼を知っている人間に対して及ぼした影響の大きさを示唆している。彼の驚くべき音楽的才能と高潔な生き方が、彼に出会った多くのミュージシャンの人生を変えた。彼に会う前、多くのプレイヤーはチャーリー・パーカーを真似て、麻薬を使用していた。しかし、ブラウンと出会うことによって、彼らはその悪癖から足を洗った。ジャズ・アーティストとして成功するためには、節制に努め、目的を絞り込んで、規則正しい生活を送らなければならないとブラウンは信じていた。しかし、彼は説教者ではなかった。ミュージシャンがブラウンの生き方を見習うようになったのは、ひとへに彼らがブラウンの途方もない才能を尊敬したからだった」(以上、何れもニック・カタラーノ著 川嶋文丸訳「クリフォード・ブラウンー天才トランぺッターの生涯」 (2003)音楽之友社からの引用)
筆者は、以前からブラウニーというアーティストのこうした音楽的才能と人間性が一体どうして育くまれたのかに大いに興味があった。
結論から云えば、その秘密はどうやら彼の家族と生まれ育った町、ウィルミントンにあったように思われる。
彼は、1930年10月30日、そのデラウェア州ウィルミントンで8人兄弟(うち男が5人)の末っ子として生まれる。
ウィルミントンという町は、ニューヨークとワシントンDCのほぼ中間、フィラデルフィアからは車で30分ほどの小さな町である。一家はイーストサイドにある黒人住宅地域に住んでいたが、生活は豊かではなかったものの、父ジョーは消防士をしながら幾つかの労働に従事し、収入は比較的安定していたようだ。両親ともに敬虔なクリスチャンで、しつけには厳しかったが、決して抑圧的ではなく、いつも家中が明るく兄弟仲が大変に良いことでは近所でも評判だった。また両親とも音楽的素養があり、子供たちにはなんらかの楽器か歌を学ばせた。とくに姉たちは早くからその才能を発揮し、長女は教会のソロ歌手となり、次女は後に大学で音楽学士号をとってオペラの道へと進んだ。親戚にも大勢の音楽家がいて、ブラウン家では何時も音楽があふれていたという。
ブラウニーは、10歳ころからトランペットを始めるが、瞬く間にそのとりこになり、やがて地区のジュニア・ハイ・スクールへ進学。ここで、スクール・ブラス・バンドに所属する傍ら、ボイジー・ロワリーというかつてジャズ・バンド・リーダーだったプロの指導を受けながら、彼が編成した「ザ・リトル・デュークス」というバンドでも演奏するようになる。ハイ・スクールのバンドやオーケストラとはいえ、そのレヴェルは非常に高くウィルミントンの町の誇りでもあったし、中でもアンドリュースというクラシック出身の優れた音楽教師の努力によってクリフォードの音楽的興味とテクニックはこの期間に長足の進歩を遂げた。
やがて、カレッジに進み、数学と音楽を専攻するが、この頃になると早や彼のトランペットの腕前はプロ並み以上といわれた。当時ジャズのメッカだったフィラデルフィアへはジャム・セッションなど他流試合に始終出掛けては、パーカー、ガレスピーを初め、ベニー・ゴルソン、タッド・ダメロン、ヒース兄弟など幾多の一流プレーヤーと共演することになる。その頃、彼に最も強烈な音楽的影響を与えたミュージシャンが、天才と呼ばれたにも拘らず、麻薬のため1950年に僅か26歳で他界してしまったファッツ・ナヴァロであった。
1953年に入るや、満を持して本格的にジャズ・シーンに登場、同年6月9日、ルー・ドナルドソン・クィンテットとのブルーノート録音、6月11日にはタッド・ダメロンと同じくブル−ノートに録音後、同年8月には自身初めてリーダーとしてジジ・グライス、チャーリー・ラウズ、ジョン・ルイス、パーシー・ヒース、ブレーキーらと「チェロキー」「マイナー・ムード」などを録音。翌54年8月以降は、音楽上の同志となるマックス・ローチと組んだブラウンーローチ・クィンテットによるエマーシー録音でピークを迎えることになる。
53年には、才色兼備の黒人女性ラルーと結婚、やがて息子にも恵まれたが、彼ほど家族を大切にしたジャズマンも居ないと言われた。
1956年6月26日、カー・クラッシュという突然の事故で僅か25歳の短い命に終止符を打つことになったが、その前日、虫の知らせというのだろうか、彼は懐かしい故郷、ウィルミントンを訪れ、父や妹たちと久方ぶりの楽しいひとときを過ごしている。
26日夜、フィラデルフィアからリッチーとナンシーのパウエル夫妻とともにシカゴに向け出発したが、その晩は雨が激しく降っていたという。深夜過ぎナンシーが運転していた車はペンシルヴェニア・ターンパイクのベッドフォード付近でガードレールに激突した後、障壁を乗り超えて75フィートの堤防から転落し、3人は即死する・・・。
そのブラウニーが亡くなって早や50年が経った。
本来ならやはりブラウンーローチ・クィンテットか、53年のブルーノート盤を採るべきかもしれないが、ここでは敢て、彼の初録音と最後とされてきた録音を収めた「ビギニング・アンド・ジ・エンド」を取り上げる。
彼にとって文字通り最初の録音は、52年3月21日、姉マリーが亡くなった直後、クリス・パウエルのバンドでの演奏だった。ブラウニーにとって姉の死は大変な衝撃だったが、当日レコーディングされた4曲の内 「アイ・カム・フロム・ジャマイカ」と「アイダ・レッド」の2曲に、ブロウニーのソロがフィーチュアされている。何れもアップ・テンポのカリプソ・チューンだが、ブラウニーの輝かしいソロだけが光っているという録音。
「ドナリー」以下の3曲については、従来死の直前の録音とされていたが、これは誤りらしい。実際は、死の1年前1955年5月31日の録音だったという事実が多くの目撃者によって証明されている。
しかし、「ドナリー」「ナイト・イン・チュニジア」などで示される火のように激しく気迫と緊張感あふれる彼のソロは、これからも不滅の輝きをもって残り語り継がれていくことだろうし、”I REMEMBER CLIFFORD" の合い言葉通り、レコードに刻印された名演奏の数々が存在する限り、これからもこの偉大なジャズマンが忘れられるという事は決してないであろう。
ジャケットのブラウニーは、ポール・デーヴィスによるもの。 |