1951年制作、ミュージカル映画の傑作「巴里のアメリカ人」は、ジョージ・ガーシュインの数々の名曲をもとに、脚色アラン・ジェイ・ラーナー、監督はヴィンセント・ミネリによるもの。主演と振付はジーン・ケリー、恋人役がレスリー・キャロン(この映画でデビュー)、友人役にピアニストのオスカー・レヴァントやミュージカル歌手のジョルジュ・ゲタリーが出演、「欲望という名の電車」や「陽の当たる場所」など多くの傑作を蹴落として同年のアカデミー作品賞を獲得すると共に、色彩撮影賞、色彩美術賞、オリジナル・シナリオ賞、衣装デザイン賞など6部門の受賞作品となった。
ストーリー自体はすこぶる単純なもので、パリの魅力に取り憑かれたGI上がりのアメリカ人が、戦後再びパリに戻って画家を目指すが、恋あり、ハプニングあり、実に楽しいミュージカル・コメディに仕立てられている。
映画は、主人公ジェリー(ケリー)のナレーションで始まるが、最初の出だしからキビキビと小気味よいテンポで、ガーシュインの軽快なメロディにのって何時の間にか浮き浮きとした気分に誘い込まれる。パリの名所が次々にフラッシュで写されると、やがてカメラはセーヌ左岸の安アパートの窓から室内へと侵入。4畳半くらいの小さな部屋のベッドに寝ていたパジャマ姿のジェリーが、目を擦りながらムックと起き上がるや、ベッドをヒモで軽々と天井まで持ち上げて中央にスペースを空け、上からぶら下がってくるブラシで歯を磨きながら、ベットの跡に足蹴りでキャスター付き食卓を置き、アッという間に朝食完了。外から子供たちが彼の名前を呼ぶと嬉しそうに窓辺によって手を振って朝のご挨拶という具合。場面は変わり、同じアパートに住むアメリカから音楽留学している友人のピアニスト、アダム(レヴァント)の自己紹介、さらに彼の友人、歌手のアンリ(ゲタリー)が相次いで紹介されながら、映画は最後まで流れるように快調なテンポで進展する。
やがてジェリーには懸案のアメリカの金持娘(ニーナ・フォック)というパトロンも見つかり、毎日がバラ色の順風満帆。そんな中、若くて美しいパリジェンヌのバレリーナ、リズ(キャロン)に出会って一目惚れ、彼女を猛アタックをする・・・
ジーン・ケリーの歌やタップ・ダンス、恋人役キャロンのバレエ・ダンス、親友のピアニスト、レヴァントのピアノ演奏やミュージカル歌手ゲタリーの歌は何れもプロの技というべきか、楽しく且つ上手い。例えば、ケリーが街の子供たちと歌い踊る「アイ・ガッタ・リズム」、ケリーとゲタリーのデュエット「スワンダフル」、キャロンの見事なバレエ・シーン「エンブレイサブル・ユー」レヴァントとケリーのピアノとタップのデュエット「トラーラーラ」そして最後にガーシュインの名曲「巴里のアメリカ人」をバックに、カラフルで幻想的なモダン・バレエ・シーンが繰り広げられるのだが、これは圧巻という外ない。
ユトリロ、ロートレック、デュフィ、ルソー、ルノアール、ゴッホらの絵画を背景に100人以上のダンサーが登場し、20分近くにわたって繰り広げられるのだが、このシーンの費用だけでも当時の額で45万ドル以上も掛かったという。ハリウッド・ミュージカルの総本山、MGM社が名プロデューサー、アーサー・フリードの下で、総力を挙げて制作した正にミュージカル映画の頂点を示す作品となった。
この作品の魅力を一言で言えば、「アイ・ガッタ・リズム」「スワンダフル」以下、最後の「巴里のアメリカ人」に至るまで ガーシュイン・オン・パレードともいうべき、彼の名曲が10曲余、存分に歌われ且つ踊られることに尽きるといってもよい。
ガーシュインは、ユダヤ系ロシア移民の子として1898年の生まれ。1916年に最初の作品を出版して以来、多くの曲を残したが、とくに1919年、アル・ジョンソンによって歌われた「スワニー」が空前の大ヒットとなり、その数年のうちに、人気ポピュラー・ソング・ライターとして不動の地位を確立する。20年代半ばには、気力も一層充実し、バンド・リーダー、ポール・ホワイトマンの委嘱を受けて「ラプソディ・イン・ブルー」(1925)、ニューヨーク交響楽団の常任指揮者だったウォルター・ダムロッシュの委嘱作品「ピアノ協奏曲ヘ長調」(1926)そして同じくダムロッシュの委嘱で作られたこの「巴里のアメリカ人」(1928)という3部作を発表。文字通り、アメリカを代表する作曲家となったが、彼の最大の功績は西洋クラシック音楽の形式にジャズの語法を結びつけたことであろう。
1934年には、アメリカで最初の本格的オペラ「ポギーとベス」を発表し、以降の活躍が大いに期待されたが、3年後の1937年に脳腫瘍のため他界。享年38歳だった。
さて、この映画に対して、50年代という全盛期のアメリカにおける「ハリウッドの総力を挙げて作りあげたヨーロッパ・コンプレックスの一大ピラミッド」(柳生すみまろ著「ミュージカル映画」芳賀書店)という評もある、確かに舞台がほとんどのアメリカ人にとって憧れの地パリ、主な表現手法はヨーロッパで発展・完成されたバレエ、バックに配されるのはフランス絵画の数々となるとそんな感がしないでもない。
しかも、このタイトルとなる音楽自体、ガーシュインが、1928年にパリを旅行し、そのときに受けた強烈な印象を音楽化したものだし、自身、10代のころキレニーなどに師事して以来、ショパンやドビュッシーに強い関心をもちつつ、その後の彼の作風にもヨーロッパ音楽が色濃く反映されている状況などから判断すると、20世紀半ばまでの事(こと)芸術全般に関する新世界アメリカの後進性は自他ともに認めざるを得まい。ある意味で「巴里のアメリカ人」というタイトル自体に、当時の文化の最先端パリで驚き圧倒されるアメリカ人(この場合ガーシュイン自身)という風刺の意味が込められているし、諸々のコンプレックスが象徴されているとも言えるのではなかろうか。やがて20世紀後半、アメリカは、国力の圧倒的強大化とともに独自の文化・芸術を展開することになるのである。
こうした一大コンプレックスは、そっくりそのまま明治・大正・昭和期を通じて日本自体が常に直面してきた現象でもあった。
ちなみに、この映画にジェリーの友人ピアニストとして出演しているオスカー・レヴァントは、1906年生まれのプロのピアニストであり作曲家でもあった。ピアニストとしては、ショパンやドビュッシー、グリークなどを得意としたが、中でも生前親しい友人だったガーシュインの演奏者として名声が高かった。この映画でも彼が弾いている「ピアノ協奏曲へ長調」は、後にアンドレ・コストラネッツの指揮で、また「ラプソディ・イン・ブルー」はオーマンディ指揮で、何れも米コロムビアから発売されている。作曲の方は、シェーンベルグとシリンガーに師事し、クラシック作品では、『ピアノ協奏曲」や「弦楽四重奏曲」など多数あるが、それ以外に数多くの映画音楽を残した。(1972年没)
ジャケット絵は、映画の最後のクライマックス「巴里のアメリカ人」のバレエ・シーンからのものである。
P.S.
ここでは、米オリジナル・サウンド・トラック盤を取り上げたが、最近、ご存じの通り著作権切れなどにより書店ルート経由を含め、安いDVDによる名画が相次ぎ発売されている。本作品も幾つかのルートから出ているので、是非共、映像での鑑賞もお薦めしたい。色彩も当時最新のテクニカラーで素晴しいし、何といってもこうした歌あり踊りありのミュージカル映画の場合は映像で観た方が、よりダイレクトに訴えるものがあると思う。 |