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第027回 2006/09/18
史実「ボリス・ゴドゥノフ」に魅せられた男たち

DISC27

キャピトル GDR7164(4)
モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』

クリストフ(Bs)(ボリス、ピーメン、ワルラームの3役), ゲッダ(T), ビレツキ(T), ザレスカ(Ms), ロマノワ(Ms), ボルグ(Bs)ほか
パリ・ロシア合唱団, フランス国立放送管弦楽団/イサイ・ドブロウェン(指揮)

(録音:1952年7月 パリ シャンゼリゼ劇場)


 2002年6月、第12回目のチャイコフスキー・コンクールを聴きにモスクワを訪れた筆者は、暇をみつけて、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」の舞台にもなったノヴォジェヴィチ修道院を訪ねた。ここは主人公ボリスが、彼の実妹でもある皇妃とともに故フョードル帝の喪に服しつつ、実は自ら密かに仕組んだ皇帝への要請をじっと待機したとされる場所であり、モスクワの南西郊外に位置する帝政時代はクレムリンの出城でもあった。
 今から400年ほど前、ボリスの画策通り煽動された多くの民衆がこの修道院まで行進し帝位に就くよう懇願するのだが、ボリスはそれに応ずるかたちで皇帝へと上りつめる。このオペラの序幕第1場での力強い民衆の合唱「主よ、なぜわれらを見捨てたもうか」に続く巡礼たちの合唱「たたえよ、全能の神を」が想起される。
 6月といえば、モスクワもちょうど青葉若葉の季節、生憎当日は小雨がぱらついてはいたが、目にしみ込むような緑に覆われてスモレンスキー聖堂以下修道院内の美しい建物が一層鮮やかだった。周囲には、チャイコフスキーが「白鳥の湖」のモデルにしたという美しい湖があったり、隣接する広大な墓地には、チェホフ、ツルゲネーフ、スクリァビン、ショスタコヴィッチ、ボリスを当たり役とした名歌手シャリアピンなどの遺体が葬られている。
 クレムリン宮殿では、オペラの第2場「戴冠式の場」の舞台、実際にボリスの戴冠式が行われた帝政時代の国教寺院ウスペンスキー寺院を訪れたが、ここには、ボリスが寵臣として仕えた雷帝イワンの豪華な玉座が飾られていた。

 オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」は、ロシアの国民的詩人プーシキンの戯曲にもとづき、作曲家ムソルグスキーが自ら台本を書き、29歳の1868年から6年間を費やして完成した渾身のオペラ作品だった。
 ロシア人なら誰もが知っている史実らしいが、イワン雷帝の子でやや頭の弱かったフョードル帝が世継ぎもなく早々に亡くなると、帝妃の兄であり摂政だったボリスが、王朝の血筋とは全く無縁だったにも拘らず、1598年、先にも述べた民衆の請願を受けるというかたちで新皇帝となる。実は、雷帝にはもう1人ドミートリーという男子がいたが、彼は何者かによって既に殺されている。プーシキンの戯曲では、暗にボリスが部下に命じて暗殺したとしており、オペラでも同様の設定だが、勿論民衆は事実を知らない。オペラのボリスは、この事に対し常に良心の呵責に苛まれているのだが、真実を知った若い僧グリゴリーが、偽ドミートリーになりすまして、ポーランドで反乱軍を組織しモスクワに向け進軍開始する。このニュースは、モスクワに居るボリスを震撼とさせるが、やがて暗殺したはずのドミートリーの幻影に悩まされ続け、あげく発狂して凄惨な死を遂げるというのがストーリーのあらましである。ボリスの狂死は、ちょうど今から400年前の1605年の出来事だった。
 このオペラ、素材が素材だけに、作曲者の生きていた帝政時代に上演するためには幾多の障害があったようだが、直接的には大半の出演者が男性ばかりで華やかさに欠けるといった理由で、1869年完成の初稿版は、劇場側によって上演拒否となった。止むなく作曲者による大改訂が加えられ、1873年に3場だけが試演的に上演。さらに1部改訂の後、オペラは、1874年2月、ペテルブルグのマリンスキー劇場で遂に初演を迎えることとなる。(このときのヴァージョンは、実際は改訂版であるが、通常は作曲者による“原典版”といわれるものである)
 1869年の初稿版では、「ボリスの死」で終わるが、1872年の改訂版(原典版)では、「ボリスの死」の後に「クロームィの森の場」が加えられ、立ち上がった農民たちがグリゴリーとともにモスクワへと攻め込むが、1人舞台に残った白痴が「ロシアの民よ泣け、泣け、ひもじい民よ」と淋しくつぶやいて幕となる。
 彼の死後にも、オーケストレーションの名手だった友人リムスキー・コルサコフによるもの、20世紀にはショスタコヴィッチによるものなど幾つかのヴァージョンが存在する。

 この1874年の初演は、大好評を博し、その場に居合わせた作曲者は幾度となく舞台に呼び戻される。その夜のペテルブルグの街では興奮した多くの若者たちが、その合唱曲の一節を歌いながら行進したほどだった。しかし、このオペラは結局種々の理由から、作曲者存命中には、2度とこの初演時と同様の形で完全上演されたことはなかったといわれる。1881年、ムソルグスキーは、生来の飲酒の悪弊と破滅的生活態度によるアルコール中毒の加速により、わずか42歳の若さで彼自身が生んだボリスのごとき精神錯乱と極貧の中で亡ったと言われるが、その波乱に満ちた生き様についてもここで触れぬ訳にはいくまい。
 1839年、16世紀以来、ロシア・プスコフ州に広大な領地を有する大地主の軍人貴族の家に生まれる。ピアノは、6歳から母の手ほどきを受け、10歳のとき、ペテルブルグへ移転。一時は親の意向で56年に士官学校を卒業し、士官の道を歩むが、その間も好きな音楽を勉強、やがてバラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー・コルサコフなど音楽史上著名な「ロシア5人組」の1人として作曲家を志向するようになる。60年代に入るや、クリミア戦争の敗北と農奴制の廃止という帝政ロシアにとって今迄にない激動の時期を迎えるのだが、彼個人は実家にとって何ら利益をもたらすことのない農奴解放には終始同情的で、社会の底辺層に対する関心が強まっていく。このころ共鳴したチェルヌイシェフスキーなどの革命思想が、その後の彼の思想に大きな影響を与え、のちの「ボリス・ゴドゥノフ」を初め、どの作品にも色濃く反映するなど、リアリズム芸術家としての姿勢をより鮮明なものにしていった。1865年、最愛の母の死や相次ぐ友人たちの死は、彼のアルコール依存に拍車をかけ、1880年には酒が原因で細々とながらも生活の糧となっていた官吏の職も解かれ、死ぬ間際は、ほとんど物乞い同然の状態だったといわれる。
 そのムソルグスキーには、「禿げ山の一夜」、組曲「展覧会の絵」や歌曲集「死の歌と踊り」や「蚤の歌」などの優れた作品があるが、最高傑作は、やはり生前完成させた唯一のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」であろう。
 私事になるが、筆者が初めてこのオペラを映像で観て深い感銘を受けたのは、1965年、NHKの放送開始40周年記念事業の1つとして招聘された「スラブ歌劇団」のテレビ中継を通してであった。指揮は、初来日したロブロ・フォン・マタチッチ。主演のボリス役はユーゴ出身のチャンガロヴィッチだったが、一体、何回ビデオに撮りなおしては観たことだろう。
 そのころニューヨーク駐在となって、かなり早い機会に入手したレコードが、今回紹介するドブロウェン指揮(1952年録音)とクリュイタンス指揮(1962年録音)の何れもボリス・クリストフがタイトル・ロールを歌う英HMV盤だった。当時、“ボリスのボリス”として、シャリアピン亡きあと最高のボリス歌手として君臨していたのが、ブルガリア生まれのクリストフだった。その後、先のチャンガロヴィッチを初めとして、イワン・ペトロフ、ジョージ・ロンドン、ニコライ・ギャウロウなどが、タイトル・ロールを歌った盤が相次いで発売されたが、ことレコードに関する限り、全曲盤では、筆者にとってクリストフによる2種類が、その強烈な存在感と名人芸において他を圧倒している。何といっても堂々としたスケールの大きさと鬼気迫る演技力、朗々と響くバスは重く力強いが、対照的にピアニッシモが例えようもなく柔らかく美しい。有名なオペラマニア、ロビン・メイによればオペラ場での魅力についても、「彼は、ボリス役者に必要なすべての資質を備えている、暗く、スラブ特有の声、卓越した音楽性、威圧し命令するようなマナコ、堂々たる体躯、いかなる状況にも適応する演技力、例えば、(シェイクスピア役者の)オリヴィエのように、“危ない感覚”を劇場いっぱいに充満させてしまう稀なる才能、・・・」ということになる。
 それにしても、20世紀後半、本家ロシア以外の東欧諸国の中で、人口800万余りの小国、ブルガリアからは、このボリス・クリストフに続きラファエル・アリエ、ニコライ・ギャウロフ、ニコラ・ギュゼレフ、ディミタル・ペトコフ等々、相次いで世界的ボリス役者が輩出し、ボリスに関しては本場ロシアをも凌駕しかねない事実には驚かされる。

 ボリス・クリストフの2種類の録音には、10年間の間隔があり、52年盤はモノーラル録音、62年盤はステレオで、録音は当然後者がいい。何れも、クリストフは、主役のボリス、ピーメン、ワルラームの3役を歌っている。しかし、基本的な声質や表現において、両者の差異はほとんどないといってよい。強いてといえば、指揮者の違い、または指揮者の適性の違いであろう。
 筆者の好きな指揮者の1人であるクリュイタンスは、あまりに洗練されすぎているというべきか、やや緊迫度に欠如しているのに対し、1894年ロシアで生まれ、モスクワ音楽院で学び、1919年以降はボリショイ劇場で指揮、特に「ボリス・ゴドゥノフ」のドイツ初演を行うなど、このオペラを最も得意なレパートリーとしたドブロウェンの場合、緊張あふれる力強さと野趣味豊かな荒々しさ、大きくうねるようなスケール感といった点で、一日の長あり、大変に魅力ある演奏だった。しかし、この名盤を録音した翌年の1953年、オスロで他界(享年60歳)。彼にとって文字通り、この世への置き土産となってしまった。
 また、何れの演奏も作曲者の死後、改訂されたリムスキー=コルサコフ版による。作曲者の原典版との主な違いは、オーケストレーションがより華麗になっていることともに、第4幕の第1場と第2場が入れ替わっていることである。原典版では、第1場でボリスが死んだ後、第2場のクロームイの森の場となるのに対し、R=コルサコフ版では最後にボリスの死が置かれる。この点は最後の場面で、白痴の言葉に託してロシアの暗澹たる未来を暗示して終わる原典版のほうがドラマ構成としては数段優れているように思われる。このためか、最近では、原典版による上演や録音が圧倒的に多いようだ。

 ジャケットは、英国HMV盤では大きな犬が中央にデンと構える初期HMV盤に共通のデザインが使用されているので、ここでは敢て米キャピトル盤を採用した。
 恐らく第4幕最後の「ボリスの告別と死」からの場面であろうか。意図的なものか、色彩豊かな衣装をまとってはいるが、まるで心の無い操り人形をみるようなボリス像が描かれている。作者の名前は、何処にもクレデイットされていないが、画面の右下のサインらしき文字は、“altoon” と読めそうだ。