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第019回 2006/06/01
古楽器によるモーツアルトの新しさ─
「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」

DISC19

日デノン CD COCO-78837
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲
変ホ長調 K 230d』(A) 
『ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K 216』 (B)

寺神戸亮(ヴァイオリン(A)), シギスヴァルト・クイケン(ヴィオラ(A), ヴァイオリン(B), 指揮(A)&(B))/ラ・プテイット・バンド(A)&(B)

(録音:1995年5月17〜19日 オランダ, ハーレム)


 ここ数十年、クラシック分野における古楽器演奏は世界的にもちょっとしたブームになっている。
 もともと、大戦前の1920〜30年代から こうした動きはあったが、戦後1つの運動としてスタートさせたのは、50年代に入って音楽学者兼指揮者のニコラウス・アーノンクールが古楽グループ、ウィーン・コンチェントゥス・ムジクスを結成して以来のことであろう。この動きは、レオンハルト、シュレーダー、ブリュッヘン、ビルスマ、クイケン兄弟といったオランダ=ベルギー古楽派によって着実に引き継がれ、やがて英米独仏の演奏者たちを含めた世界的な一大潮流として発展し、定着しつつある。
 日本では、古楽器、もしくは古楽、オリジナル楽器、また最近ではピリオド楽器と呼ばれることも多いようだが、要は過去のある時代に製作された楽器がそのままの状態で維持・保存されているもの、または新しく製作されたものでも過去のある時代の様式に合致しているもの(レプリカとかコピー楽器とも呼ばれる)であれば古楽器と呼称される。主にバッハ以下、バロック音楽の再現を目的としていたが、最近では、バロックに限らず、次の古典主義やロマン主義音楽でも活発に使用される。例えば、我々がコンサート・ホールで見かける黒塗りのグランド・ピアノは19世紀もかなり後半に完成された様式だが、このグランド・ピアノでモーツアルトやベートーヴェンは勿論、シューマンやショパンを弾いても、それはもう本来のオリジナルではないし、300年も前に製作されたグァルネリやストラディヴァリといったクレモナの名器の場合も、現在コンサートなどで使用されているほとんどは、大幅に変更されていて本来の原型を留めているとはとてもいえず、従ってこれらの名器もオリジナル楽器とは呼ばない。

 しかし、もっと大切なことは、こうした楽器も 所詮は「道具」にすぎないわけで、要は、そうした楽器を使ってどういう音楽を再現するのか、その芸術的必然性が問題となろう。アーノンクールも述べているように、博物学的趣味に基づく古楽演奏では意味がなく、彼流の言い方をすれば、「(オリジナル楽器が)私に興味があるのは、あれこれの音楽を<今日>表現するために、数多くの可能性のなかで最良のものであると思える限りにおいてである。私は、プレトリウスのオーケストラがリヒァルト・シュトラウスを演奏するには適さないと考えると同じように、リヒァルト・シュトラウスのオーケストラはモンテヴェルデイを演奏するには不適切だと考えている」(同氏著「古楽とは何か」樋口隆一訳 音楽の友社)そのためには、作曲家の音楽観や当時の時代的思想、演奏技術など、かなりの歴史に対する研究や準備が必要となる。作曲者が真に意図するものを表現するために、作曲者の頭の中で鳴っていた当時の楽器を使用したほうが、より目的に合致すると判断される限り使用するというのが大方の古楽器奏者の言い分であろう。
 かつては小規模な宮廷で演じられた貴族のみの音楽が、今や数千人を収容するような巨大なコンサート・ホールで広い階層の観客を相手にしなければならなくなるや、より大きな音量や華麗な音色が必要となった。そうした目的に合致したモダン楽器に慣れてしまった現代の聴衆に対しても、古楽器による演奏を以て説得性を与え得るのかは、演奏家の芸術的力量の問題でもあろう。
 日本でも有数のバロック・チェロの名手である鈴木秀美氏によれば、「オリジナル楽器でのクラシック音楽、その楽しみは何といっても明快なタッチ、発音の良さからクリアに聞こえる音楽の言葉づかい、そして「同時代楽器」ならではの音の溶け合い具合でしょう。もう1つ言うなら、その最高に“豊かな”音量です」と云っておられる。(同氏による「コンサート・プログラム」1994年10月)最後の“豊かな”音量については若干補足説明が必要で、同氏によれば、オリジナル楽器でも、表現能力の全てを使い切ってその限界までを極めれば、あとは聴き手の耳と感性による無限の微調整機能とあいまって、豊かで逞しい音楽を再現することは十分に可能という意味である。確かに、古楽器演奏の魅力は、そういうところにもあるように思われる。

 さて、今回 取り上げたのは、古楽器演奏団体の雄、ラ・プテイット・バンド(LPB)に、独唱者としてクイケン兄弟の次兄、シギスヴァルト・クイケンと寺神戸亮が加わったモーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」および「ヴァイオリン協奏曲第3番」。独奏者のシギスヴァルト、寺神戸の両氏も、何れもオリジナル楽器を使用している。
 とくに「協奏交響曲」は、筆者にとって愛聴曲の1つ。マンハイム楽派で盛んに作られた形態だが、モーツァルトが、パリ=マンハイム旅行の折、耳にとめておいたものを、23歳のときザルツブルグで作曲したのではと云われる。何と云っても、ハ短調で書かれた叙情的な第2楽章が絶品。 1番から5番までの5曲のヴァイオリン協奏曲は、何れもモーツァルトが10代最後の年に故郷ザルツブルグで書かれたので、“ザルツブルグ協奏曲”と呼ばれる。後期のピアノ協奏曲などと比べると、一般的評価は低いようだが、いかにも天才モーツァルトらしい美しいメロデイがふんだんに鏤められた若々しく颯爽とした傑作群である。自身、6歳からヴァイオリンを弾き始めたが、腕前のほうも中々のものだったようで、これらの曲もあるいは、自分が弾くために書いたのではないかとも云われる。特に3番以降が有名だし、質的水準も高い。
 LPBは、1972年にシギスヴァルト・クイケンによって結成された古楽器奏者による室内楽団。楽団名やその構成は、18世紀、リュリが指揮したルイ14世のための宮廷オーケストラに肖った。シギスヴァルトは、1944年ベルギーの生まれ。7歳のときから、兄ヴィーラントとともに、古楽器に興味をもち、1969年には、独自の古楽ヴァイオリン奏法を開発し、演奏の傍ら、71年以降は、ハーグ音楽院で古楽演奏指導にも当たる。
 日本の代表的バロック・ヴィオリン奏者、寺神戸亮は、1961年生まれ。桐朋学園時代から、古楽器に惹かれて、86年、オランダにわたり、ハーグ音楽院でシギスヴァルトに師事。以降、広くソロで活躍する傍ら、このLPBのコンサート・マスターなどを務めるとともに、師とともにハーグ音楽院でも教鞭をとっている。
 いわば、この演奏は師弟競演によるもので、ヴァイオリン協奏曲第3番は、師のシギスヴァルトがヴァイオリンを弾いているが、協奏交響曲では、寺神戸がヴァイオリンを、師がヴィオラを弾いてサポートする。現在の古楽器演奏の水準を示す名演というべきだろう。

 ジャケットは、故有元利夫の「星の運行」という作品。1946年生まれの有元は、中世イタリアのフレスコ画と日本の古画に魅せられ、独特の画風を開発して将来を大いに嘱望されたが、1985年、わずか38歳で亡くなる。生前から筆者の好みの作家の1人だった。バロック音楽の無類の愛好者だったことでも知られるが、そういえば、この一見静止したような絵にも画面全体にどこか不安定な動きとリズムが感じられ、バロック音楽的といえるかもしれない。1974年に描かれた比較的初期の代表作であるが、出来れば、LPジャケットの大画面で鑑賞したいものである。