二豊路とは、現在の大分県が万葉の時代、豊後と豊前と呼ばれており、往路、遠く奈良の都から海路を経て大宰府を含めた九州北部への旅路の道程にあること(またはその逆の陸路の軌跡もあったと思われる)、に由来して付けられたもの。既に鬼籍に入られた大分県出身の著者は、万葉集研究の第一人者とも評価されてきたようです。また、今日でも特に男声合唱組曲として知られる壮大な「石橋の町」(大分県院内町を歌ったもの。当初混声合唱組曲として発表され、後に男声合唱組曲としても楽譜が出版された。1999年11月)はこの著者の作詞によります。
最近の文藝春秋(12月号)の巻頭文、「教養立国ニッポン」で、著者藤原正彦氏(お茶の水女子大教授・数学者)は、日本の誇る歴史的な教養への回帰を教養主義として、国是にかかわる日本人の姿勢を問っています。その中で「圧倒的な質と量を誇る古代から現代までの文学」を教養の主たるものとして取り上げ、古今和歌集、新古今和歌集と並んで、この万葉集も「世界に誇る」べき存在であると述べています。私は古今の全世界にわたる文学に精通しているわけでは決してありませんが、この藤原氏以外にも、多くの日本文学者だけでなく、日本文学に造詣の深い海外の研究者が、「源氏物語」と並んで間違いなく挙げる「万葉集」を日本古典文学の金字塔と評価することに反論する術はないようです。
さてこの「万葉をたずねて」は、万葉集に集められた4516首の歌から、大分県を対象とした、と著者が理解した24首を取り上げ、そのすべてに解説を試みています。こう書きますと、地方の研究者が、自らの郷土を対象とした歌を解説した、郷土史家的な、どちらかといえば狭隘な発想に基づく論考であるように感じられるかもしれません。しかし、そうではありませんでした。豊後と豊前(二豊路)という切り口で、万葉集とは具体的にどのようなものであるのかという解説を通して、当時の日本人の心象風景がどのようなものであったのかという壮大なモチーフが横たわっていることに、読み進むうちに気付かされます。それはまた現代を生きる私たちへの心温まる、しかし本質的には厳しい批判という側面ももつのです。
8世紀、平城京に都のあった、今日で言う奈良時代に生きた、宮廷人だけでなく、農業、漁業に勤しむ人、兵役にある(就く)人、そうした様々な階層に及ぶ人々の、恋人や家人といった身近な人に対してだけでなく、近づき遠ざかる風景や、眼前で人々が繰り広げる生活への感じ方が、実に明快に解説されていることに驚かされます。そのような分析を通して、著者は「万葉集は日本人の心の原点です」と断言しています。
著者は、万葉集の核心を、多くの階層に分かれたその当時の人々の、喜びや悲しみがおおらかに正直に訴えられた、感動を訴えるものと捉えているように思われます。「訴えるから詠える、歌うとなったといわれています」というのは、著者の謙遜を含んだ万葉集への本質的な理解ではないでしょうか。
万葉集の七割近くが恋の歌、相聞歌であり、ついで挽歌(人の死に対する歌)、そして覊旅歌(きりょ、旅を歌ったもの)であると巻末に述べています。おそらくそこから、大村書店の改訂版での副題を、「旅二豊路・恋・江戸」としたものと思われます。相聞歌であれ、挽歌であれ、そして覊旅歌であれ、いずれも心の奮えや震えといった、大きな感動という心の揺らぎを文学的に表現したものだといえるものです。ちなみに「万葉をたずねて」の中で紹介された歌で、私が一番気に入った句は第六章のものです。
たもとほり 往箕(ゆきみ)の里に 妹(いも)を置きて 心空(そら)なり 土は踏めども
きっと歌ったのは若い男性だったのでしょう。なんとも不安に満ちた心模様がユーモラスであり、ほほえましくも思えるのは年のせいでしょうか。
かつて万葉集を巡って、1989年、90年に「万葉集は韓国語で読める」といった趣旨の本が、万葉研究者の間だけでなく、日本文学に興味を持つ人々の間で話題となったことがあります。藤村由加氏や、朴炳植氏、李寧煕氏といった方々がその主張者であったように記憶しています。韓国語をかじったことのある私としては、大変興味深く読ませてもらった記憶があります。その一つ一つに反論はできませんが、今回「万葉をたずねて」を何度か読み返してみて、この方々の主張には無理があるように思えます。
万葉集の原典は、漢字のみが用いられ、カタカナやひらがなはありません。時代は未だ紀貫之や紫式部には至っていなかったのです。カタカナやひらがながなかった時代の文章や歌に用いられた漢字は、まったく意味を成さない読むためだけの漢字と、意味を持つ漢字の二通りが混在していたことはいうまでもありません。ちなみに上の歌は原典ではこう記載されているようです。
佪俳(たもとほり) 往箕之里爾(ゆきみのさとに) 妹乎置而(いもをおきて) 心空在(こころそらなり) 土者踏鞆(つちはふめども)ここで問題は、歌った作者が自ら当て字を含む漢字の一連をすべて書き記したかどうかです。作者と記録者が同一であることが前提となって、「万葉集は韓国語で読める」という仮定が主張されました。しかし口承文化が主流だった時代に、全ての歌の作者が文字として歌を書きとめたとすることにはかなり無理がありそうです。歌の作者が、その歌の記載者とは同一ではないとすると、漢字の裏に隠されたであろう秘密は存在しないことになるのではないでしょうか。
万葉集はその成立以来1200年以上の歴史を持ちます。原典が全文漢字書きであったため、その読み方、意味合いをめぐって、平安、鎌倉、江戸時代そして明治、大正、昭和、平成と、万葉集研究は連綿と続けられてきました。現在でも、年間100を下回らない論文が発表されているようです。大きな誤解も幾度となくこの過程で訂正されてきました。その意味で、万葉集は今でも生きているのです。著者が平成の初期に出版したこの万葉集の個々の句の理解も、今後50年、100年を経て幾多の修正を必要とされるかもしれません。しかし万葉集を日本人の心のあり方として捉える著者の観点、立脚点は決して今後も揺るぐことなく評価され続けることでしょう。
和歌が苦手な方へ。残念ながら、大村書店の新装改訂版で確認することができませんでしたが、もし掲載されているのであれば、初版、第2版にはある巻末の「NHK文化サロン アフター5は万葉集」だけでもお読みになることをお勧めします。「袖振り」、「紐を結ぶ」など、普通の辞書ではお目にかかることのできない日本人の表現方法が披露され、現代に対するウイットに富んだ批判ともなっています。