White
White CEC LOGO HOME 製品 テクノロジー サービス 会社概要 コラム メール English White
White

ホーム/コラム/みだれ観照記/日本語と中国語

第58回 2007/4/25
日本語と中国語
58

書名:日本語と中国語
著者:劉徳有
発行所:講談社
出版年月日:2006410日(初版)
ISBN
4062131366
価格:1700円(税別)
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2131366

確か、初めて中国を訪問したのは1970年代後半か1980年代初めの上海だったように記憶しています。実に簡単なことなのですが、ホテル、トイレ等のドアに「推」と記載され、日本ではこうした場合「押(す)」と漢字表記されることとの違いに違和感を感じました。おそらく、日本語で使用している「押す」は、本来上から下へ力を加えるのであって、水平に力を前に加える動作は「推」が語源的に正しいのであろうなと感じたことは、今でも鮮明に覚えています。

日本での使われ方が、中国でのそれとまったく異なって、いつしか逆転した例を著者は冒頭に挙げています。「挨拶」です。知識ある中国人にとって、「挨拶」の文字から連想するのは、「拷問刑」であるとその極端なケースを紹介しています。中国人が人前で行う「挨拶」は、「講話」もしくは「致詞」と表記されるようです。

今日、私たちが使っている漢字が中国大陸の「発明品」であることは、誰もがよく知っていることです。しかしその使われ方には、歴史的に大きな変遷があり、例えば上の例のように、中国での原意とはかなり異なった意味合いを持つ漢字が数多くあることも事実です。この著書は、日本での漢字の使われ方の変化だけでなく、漢字の故郷中国大陸内部でも、とりわけ戦後の人民中国の時代になって、劇的ともいってよい変化が数多く発生していることを知らせてくれます。

明治維新以降、当時の為政者がそれまでの日本にはまったく存在しなかった西洋の文化、習慣、社会制度、機械器具を導入した際に、それらを表現する日本語を創造する必要がありました。当然いまだ鎖国状態であった当時の中国大陸(清朝)には、それに該当する漢字が存在していません。そこで数多くの漢字が、例えば明治を代表する教育者の一人であり、慶応義塾の創設者である福沢諭吉、日本資本主義の父と称される渋沢栄一といった人々によって作り出されたことも広く知られたところです。著者は、それらの多くが中国大陸に逆に輸出され、近代中国における漢字に多くの日本製漢字が輸入されたことに触れます。

日本創作漢字が今日でもそのまま中国で使用されている例として、「否定、肯定」、「積極、消極」、「予算、決算」などの背反語彙、また、「科学」、「民主」、「政策」、「事態」などの新しい専門的な語彙の数々が列挙されています。

ただそれにとどまらず、そうした当時の先進的な日本の知性は、既に中国の古典に造詣が深かったことも事実です。それゆえ、まったくの日本的な造語だけでなく、中国古典の原典に遡った、漢字の数百年来の掘り起こし作業でもあったことに着目しているのは慧眼といえます。例として、「経済」、「組織」、「生産」、「憲法」。 それぞれにその語彙の原典を参照しています。

日本語の表記には、漢字、ひらがなの他に、外来語を表現するカタカナがあります。このカタカナに該当する外来語の表記方法が中国では主たる表記文字である漢字以外にないことに、外来語の漢字表記の困難さと、一種名滑稽な表現をとらざるを得ないことにも言及します。(中国語にとどまらず、外来語表記として主たる表記方法である漢字、ひらがなではなく、カタカナを専門的に用いる日本語は、その点で他の多くの外国語に比べて柔軟性に富んでいるといえるかもしれません。)その際、発音を優先させるか、意味合いを優先させるかの苦しみがあり、たまたま発音上も意味合い上もマッチした漢字が当てられるとそれがベストということになりそうです。それらのうちの「秀逸な」例として、トークショーを意味する「脱口秀」を挙げています(中国語読みがそれに近く、意味合いとしてもその感じがよく現れている)。

こうしたことは、一種類の文字(漢字)だけに頼る表記文化の弱点でもあるのですが、外来語をそのままカタカナで表現できる便利な日本語では、逆にそれに頼りすぎて、昨今の日本の例えば宣伝文句には、すべての人が理解できているとは思われない、ほとんどカタカナだけのキャッチフレーズに若干の疑問を呈してもくれています。何しろ、日本国政府の公文書にもカタカナが多すぎ、以前の総理大臣は外来語の書き換えさえ図式を命じたほどだと揶揄していますが、指摘のとおりではないでしょうか。また現総理大臣の所信演説にも、多くの日本語への翻訳のないままのカタカナ(外来語)が取り入れられていたことは記憶に新しいところです。新しい外国語の単語をそのままカタカナ表記したり、会話で使用することは、ある意味で使用する人の知識の広さを表すかもしれませんが、受け取り方によっては、自分の意図することを曖昧化させることが多いようにも危惧されます。

さてこの著者、劉徳明さんは、日本語通訳の大ベテランであり、新華社通信の主席記者として日本にも長く滞在したと紹介されています。初めて日本語で執筆したと「あとがき」にありますが、文章表現が的確で、読み進むのにまったく問題はありません。この著作は、単に現在と、現在に至るまでの日本語と中国語の関係の言語学的な比較論にとどまりません。むしろそれ以上に、その言葉を使用する、両国の人々の生活慣習を中心とした優れた比較文化論の側面ももっています。前首相の、中国訪問時の不用意な漢字の使用(受け取る側に立てば不愉快であったでしょう)への厳しい警告から始まり、一気に最後まで読ませる筆致は、日中両国における経験と豊かな知識に裏付けられています。少なくとも日常何気なく使用している漢字を再発見することだけは間違いありません。