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ホーム/コラム/みだれ観照記/「タンポポの国」の中の私

第10回 2003/02/26
「タンポポの国」の中の私
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書名:「タンポポの国」の中の私
著者:フローラン・ダバディー
出版社:祥伝社
出版年月日:2001年9月20日初版
ISBN:4−396−61133−1
価格:1,600円
http://www.shodensha.co.jp/s-book/shink4.html
上記から、検索にて書名を入力してください。

様々な観点から読むことのできる、読みやすく、比較的格調の高い文章表現で、なかなか鋭い指摘が各所にちりばめられ、一気に読み終えてしまう書籍です。ともすれば、読みやすいため、流し読みしてしまいそうになるのを我慢して、ゆっくり読むことをお薦めします。

著者は、ハードブックのカバーに村上龍氏が謳っているように、2002年度5月31日から、日韓両国で開始されたFIFAワールドカップに出場した日本チームの監督として、トルシエ氏が選ばれて以来、監督専用の通訳として日本サッカー協会に採用された、1974年生まれの、フランス青年。背の高い、ほっそりとした体格の青年が、ワールドカップ開催にいたる1年間以上の期間、トルシエの横にいて、トルシエの伝達係としてTV画面にしばしば出ていたのをご記憶のかたもいるのではないでしょうか。

この青年は、単なる通訳を勤める人間というイメージから憶測される、ある意味で限定された能力の枠に入りきれない能力をもっている。豊かなスポーツ経験、高度で多彩な語学力、様々な高等教育機関で学問に取り組んだ高い知性、両親の教育と生育環境によってはぐくまれた寛容な国際性、そして何よりも鋭い感性を持っていたのだ。

この本のタイトル、「タンポポの国」とは、著者が見、そして日本への思い入れを決定付けた伊丹十三監督の映画、『タンポポ』(国内では1985年上映、主な出演は、山崎勉、宮本信子、役所広司、渡辺謙)からとったもので、まさに日本のこと。そしてその感動した点とは、「日本の特異性に訴えることなく(中略)インテリであろうと普通の人であろうと、日本という国に興味があろうとなかろうと、誰でも面白く見ることができる」ことなのである。つまり、この映画で表現される精神文化の世界的な普遍性に共鳴すると同時に、そのような表現をとることのできる日本に対する深い思い入れが氏を、日本へと誘ったとプロローグで述べられる。

その意味では、この著作は、例えばルース・ベネディクトの「菊と刀」に代表されるように、日本を、特異性という観点からではなく(ベネディクトは『恥』に日本文化の基調を見出そうとした)、民族の壁を超えた国際性、普遍性の観点からみた、新たな文化人類学的視点を据えているともいえる。ただ、決して日本、もしくは日本人への賛歌の連続ではなく、むしろ随所に厳しくも、的確な指摘が多くなされていることだけを述べておこう。

他方、スポーツマンでもある著者、フローラン・ダバディー氏の語る、たとえばサッカー監督はなぜ試合中、背広にネクタイという「正装」スタイルをとるのか、といったことなど、なかなかサッカーを誕生させた欧州出身でなければ判らない疑問にも答えてくれる(第3章)。スポーツを語るときも、氏の観点は、国際性、普遍性から外れることはない。第1章、スポーツが作る新しい地球は、たとえスポーツがあえて好きでない読者にでも飽きを感じさせることのない話題が次々と展開されている。

氏を取り巻く環境、両親についても極めて興味深いものがあるが(第4章)、その楽しみは読者に取っておこう。何よりも敢然と言い切って潔く、共感できるのが、「人種差別の元凶は『無知』である」とする表現である。この主張は、そのタイトルで教示された部分だけでなく、この本全体の大きな基調となって全編を貫かれている。学習、もしくは勉強すればするほど、世界的な観点に立ち、人種を超えて人類を普遍的に愛すことができる、そのように断じて臆すことのないこの著者が、将来どのように再び私たちの前に現れてくれるのか、興味を持って見守りたいものです。氏が映画『タンポポ』について述べたのと同じように、サッカーが好きであろうとなかろうと、スポーツが好きであろうとなかろうと、また本が好きであろうとなかろうと、この本は、「面白い」。