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第26回 2002/12/02

木枯らしに落ち葉が舞い踊る季節になりました。つい先ごろ新年のご挨拶をしたと思ったら、もう師走です。なんとなくせかされる心持になられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

当社の位置する埼玉県さいたま市は、来年(2003年)4月から政令指定都市に「格上げ」され、それに伴い行政区分上、多くの区が新たに命名されます。その中の一つ、「見沼区」を巡って多くの反対意見がマスメディアで紹介されていました。いわく、「沼」が地名に付くことにより、土壌の軟弱さが想起され、地代が下がるかもしれない。いかにも田舎のイメージが強く印象付けられ、住むのに恥ずかしい、等々。こうした反対意見そのものはまずおくとして、何ゆえメディアが反対意見だけを面白おかしく取り上げるのか、かなりの不快感を覚えました。

私は、九州から上京し、埼玉県に住むようになって31年間、また新「さいたま市」となる前の浦和市に住むようになって27年間が経ちました。この地域に住むようになってもっとも良かったと思ったのが、この見沼田圃一体を目にしてからです。ここは、所謂、首都圏からわずか25Kmの圏内にあるにもかかわらず、かなり人工的な開発の手が加えられてきたとはいえ、未だ豊かな自然に驚くほど恵まれています。今回は、ローカルな話題で申し訳ありませんが、この見沼田圃についてちょっとご紹介させてください。

埼玉県の東南部、かつての大宮市、浦和市、そして川口市の三市にまたがる、およそ1,200ヘクタールに及び田畑の広がりが、今日、見沼田圃と呼ばれています。江戸時代初期以前は、広大な沼沢地であったのを、寛永6年(1629)八丁堤を築き、見沼溜井が、まず作られます。しかし、この見沼溜井は、反作用として、その北部地域一体の水不足、沿岸の湧水問題を引き起こします。

江戸時代中期、8代将軍吉宗の時代、幕府の財政難解決のために新田開発が関東平野一体で大々的に行われますが、その中の一大プロジェクトとして立案されたのが、この見沼田圃でした。まず、見沼溜井を切り崩し、この水を、側を流れる川、芝川に放流します。その後の田畑に必要な灌漑用水を、何と、はるか上流の利根川(現在の埼玉県行田市)から、それもこの地域の広大さに鑑みて、東西の2系統に分流させて引く。この用水路は、見沼の代わりとなるものという意味で、その後、見沼代用水路東縁、同西縁と呼ばれます。

現在でも、行田市の利根川からの取水口のあたりには、この見沼用水にちなんだと思われる、見沼の地名が残っています。紀州藩士、井沢弥惣兵衛為永に指導され、享保13年(1728年)に完成したこの用水路は、それでプロジェクトが完結したわけではありませんでした。更に3年の月日をかけ、この見沼代用水路と、3メートルもの水位差のある芝川とを、規模こそ違え、その後作られるかのパナマ運河と基本的には同じ構造の、閘門式運河構造をもつ通船堀を介して接続したのです(享保16年、1731)。

パナマ運河に先行すること160年あまりです。こうして、見沼代用水路は、単に灌漑用水路としてだけではなく、荷物の運搬水路として、江戸と関東平野深部(北足立、南北埼玉郡)とを結びつけたのです。この流通路は何と昭和の初期まで使用されたといわれます。従って、見沼田圃とは、18世紀において、日本が世界に誇ることのできる新技術を駆使した大プロジェクトの集大成であったともいえるでしょう。その結果として出来上がった、首都圏唯一ともいえる自然の広がりは、その名前と共に歴史の片隅に追い込むことはできないように思われるのです。

行政府の決める、官僚的なお仕着せの多くに住民が反感を持つことは多々あります。それに、マスメディアが容易に尻馬に乗るかのごとき扇動をすることも推測できます。しかし、今回のさいたま市の行政区分の一つに、「見沼区」を候補としてあげたことは、なんとも適切な処置であったように私には感じられるのです。年の瀬をまじかにして、豊かな自然を目にし、古き歴史を振り返ることも、ほんの少し心の余裕をもたらすのではないでしょうか。