第009回 2006/02/01 |
ホークとハリー ─第2次大戦最只中に記録された名演 |
日マーキュリー BT-5254(M) アイ・オンリー・ハヴ・アイズ・フォー・ユー/ス・ワンダーフル/ビーン・アット・ザ・メット/ナイト・アンド・デイ/メイク・ビリーヴ/ドント・ブレイム・ミー/ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・スィングス/ハレルヤー など 計12曲 コールマン・ホーキンス5重奏団, コールマン・ホーキンス4重奏団 & コールマン・ホーキンスとオール・アメリカン・フォア |
ジャズ史上“テナー・サックスの父”と呼ばれたホーク、またはビーン(頭の俗語)こと、コールマン・ホーキンスは、1901年ミズーリ州セント・ジョセフの生れ。10代からサイドマンとして修業の後、1923年以来10余年間フレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。この期間にリード楽器としての独自のテナー・サックス奏法を確立した。得意のコード・チェンジを存分に駆使しながら、一方ではハードにドライブする激情的なリフを 他方では美しい装飾音をちりばめたバラードをもって、当時流行のジャム・セッションでも当たるを幸い、なぎ倒して向かうところ敵なし、ニューヨークを舞台にテナーの王者として君臨することになる。 片やハリー・リム。1919年オランダ領だったバタヴィア(今のインドネシア)のジャカルタ生まれ、ジャズの熱狂的愛好者だった彼は、地元ではジャズ誌の編集をしたりしていたが、30年代の後半、オランダ経由、ホーク同様、これまた1939年の大戦勃発直前に渡米を果たすこととなる。 本アルバムの選曲及び編集を担当された粟村政昭氏によれば、特に最後の4曲(上記“メイク・ビリーヴ”以下の4曲)は、当初から通常の25センチではなく、30センチSP収録が予定されていた由。そのせいか、リーダー以下とくに気合いが乗った演奏で、ソニー・ロリンズが絶賛した通り、ホークの生涯でも最良の演奏の1つ。録音状態も非常に良好。またレスターの場合、その直後の徴兵以降、精神的に完全におかしくなったことを考えると、ホーク以上に、この時期のベストの演奏が残されたことに感謝すべきであろう。しかし、このキーノートもプレス会社のトラブルなどで問題続出の後、ハリーは、1947年に退社。翌1948年にはマーキュリーに権利を含めて売却されてしまう。 筆者との出会いは、ちょうど1960年代中ごろだった。会社から店までは数分の距離だったし、お互いロング・アイランド住いで家がごく近くだったこともあり、一時期はほとんど毎日のように顔を合せていた。ジャズの聴き方ABCから始まって、いわば師匠みたいな存在だったが、こうした関係は1973年、新人の発掘を目的にした本格的ジャズ・レーベル、フェイマス・ドアを立ち上げるまで10年近く続くことになる。小柄で短髪、何時も蝶ネクタイで黒スーツが定番。普段は一見クールであまり笑わないが、気を許すようになるとすこぶる面倒見がよかった。69年5月だったか、ホーキンスが亡くなったので、葬式に一緒に来ないかと誘われたことがある。生憎、仕事の都合で同行できなかったのがいまだに残念である。ハリー自身の訃報に接したのは、筆者が日本に帰国後、暫く経った1990年7月のことだった。(享年71歳) その死の4年前、1986年日本では、児玉紀芳氏監修で、未発表の115曲を含む334曲をLP21枚にまとめた『コンプリート・キーノート・コレクション』が発売された。(日本フォノグラム 18PJー1051/71)これこそ、ハリーへの何ものにも代え難い最高の餞(はなむけ)であろうと信ずる。 |