「ドイツ・レクイエム」は、筆者にとってブラームスの作品の中でも最も好きな曲の一つであり、この傾向は加齢とともに増々深まっていくような気がする。然し意外なことに、この作品はブラームスの晩年に書かれたものではない。10年余という長い歳月の末、30歳代半ばに完成されたむしろ彼の出世作とされる比較的早い時期の作品であり、このころは未だ交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲も生まれていなかった。
そもそも作曲の動機は、1856年、恩師シューマンの非業の死に哀悼の意を表するため、翌57年、彼が23歳のとき着手されたとされるが、一向にはかどった気配がない。やがて65年、最愛の母の死を機に改めて仕切直しをして本作品に全力を傾注し、その3年後の68年5月、35歳のときハンブルグで漸く完成をみたのである。従い、この曲は、恩師とともに母に捧げるレクイエムとなってしまった。
直接的動機はそうであっても、本作品は同時に敬虔なプロテスタント教徒だったブラームス自身の神に対する深い信仰を告白・表明した曲でもあり、所謂、ラテン語による典礼用レクイエムをそのままドイツ語訳したものではない。また教会で演奏されることを目的とせず、最初から演奏会用として作曲されたものである。
即ち、マルティン・ルターの訳したドイツ語による旧訳と1537年版の新訳の双方から自身が相応しいと考えた死、神の慈愛、あるいは永遠に関する聖なる言葉を選んで、これをテクストとした。内容的にも死者の霊を慰めることよりも、むしろ聖書の言葉を通して残された者への慰みに主体がおかれている。また「ドイツ・レクイエム」という題名にも拘らず、ブラームスは、出来れば「ドイツ」の代わりに「人間」と置き換えたいと述べているが、19世紀ドイツの批評家ハンスリックが激賞したごとく、バッハの「ロ短調ミサ」、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」以来の最大の宗教合唱曲の一つであることは間違いないところであろう。
ブラームスにとっても最高傑作の一つであり、作品は円熟かつ巧緻にして重厚、しかも後期ロマン派の香り高い名曲であり、何回聴いても飽きるということがない。1867年12月、シューベルトを記念するウィーン楽友協会で、ヘルベック指揮で最初の3楽章のみが初演されたが、全曲の初演は、69年2月、ライプツィッヒでカール・ライネッケの指揮で行われた。
全7楽章から成り、1.「幸いなるかな悲しむ者よ」2.「人はみな草のごとく」3.「主よ、ねがわくばわが終わりの日を」4.「万軍の主よ」5.「かく汝らいまは憂いあり」6.「われらここに永遠の都なくして」7.「いまより後、主にありて死する者は幸いなり」で終わる。何れも3部形式。独唱はソプラノとバリトンによるが、ソプラノは第5楽章で、バリトンは3楽章と6楽章で歌われる。
まず出だしが素晴らしい。第1楽章のチェロ、ヴィオラと引き継がれる低弦による導入部のあと、「幸いなるかな、悲しむ者よ、その人は慰められん」といかにもブラームスらしい分厚いハーモニーにのって慰めに満々ちたマタイ伝第5章4節の文句がゆったりと静かに歌いだされる。この合唱部分は全曲の基本的な動機ともなっており、終楽章の最後にもこの動機と関連する「主にありて死ぬる者は幸いなり」の部分が何回も繰り返され、最弱奏で「幸いなり、幸いなり」と消え入るように歌われ、静かなハープのアルベッジョで終曲となるのが、何とも詠嘆的。途中では第3楽章の有名なフーガが見事でエキサイティングであるが、ここは19世紀後半に書かれた最も偉大な楽曲部分ともいわれる。
当然のことながら、この曲には、フリッツ・レーマン、ルドルフ・ケンペ、ステレオ時代になってからもクレンペラーや晩年のカラヤンによるものなど、幾多の名演が存在する。その中で、今回取り上げた録音は、カラヤンがウィーン・フィルとウィーン楽友協会合唱団を指揮し、独唱者には何れも全盛期のシュヴァルツコプフ(ソプラノ)とホッター(バリトン)を起用したもの。瑞々しい清冽さと叙情性の中に静かな迫力を伴った名演である。1947年、ウィーンにおいて、英EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグの下で制作されたものだが、第二次大戦後 最初に録音された「ドイツ・レクイエム」の全曲盤でもあった。
カラヤンは、この「ドイツ・レクイエム」が余程好きだったとみえて、その後公式録音だけでも生涯に6回ほど同曲を録音している。とくに晩年に録音されたもの、例えば同じウィーン・フィル/楽友協会合唱団を指揮した83年盤や87年盤は、何れも流石に落ち着いたムードのなかに自然さが滲みでて悪くはないのだが、筆者には、モノーラル録音ながら、やはりこの47年盤がより好ましい。
一つには、戦後の不遇時代を経て漸く演奏許可が下り、愈々(いよいよ)将来への大きな飛翔を目前に気力が最も充実した時であったこと、また年齢的にも未だ自身40歳前で、ブラームスがこの曲を完成させた年齢と比較的近かったことなどもあり、作品に対する強い共感が根底にあったからではなかろうか。
この録音前後の40年代後半を含めて、カラヤンの動向について以下若干補足説明しておきたい。
実は前年の1946年9月に、カラヤンにはレッグの企画による同じくウィーン・フィルを指揮したベートーヴェン交響曲8番ほかの録音があって、これらがカラヤンにとって大戦後の初の公式録音であり、同時に名門ウィーン・フィルとの生涯での初録音でもあった。ナチス・ドイツ時代、ナチス党員だったこともあり、戦後、連合国当局により演奏活動を全面的に禁止されていた不遇時代のカラヤンに手を差し伸べたのが、他ならぬレッグで、彼と巡り会えたことはカラヤンにとって幸運だった。(不思議なことに英国の企業によるこうした録音のための演奏は公演とは見なされず演奏活動禁止の対象外とされていたようだ)これら一連の録音以降、2人の蜜月時代は1960年まで10年以上続くこととなる。
翌47年8月になって、漸くカラヤンに待望の正式な演奏許可が下りた。10月20日からレッグにより予定されていたこの「ドイツ・レクイエム」のレコーディングが開始され、続いて11月にはベートーヴェンの「第九」の録音も同じくウィーン・フィルとのコンビで始まった。「ドイツ・レクイエム」の録音を契機に、カラヤンは初めてウィーン楽友協会合唱団と出会うことになり、忽ちお互いは意気投合。楽友協会は、直ちにカラヤンに終身芸術監督となるよう要請し、両者の関係は、文字通り彼の死の直前、1989年3月27日 ベルリン・フィルとの最後のコンサート、ヴェルディの「レクイエム」まで40有余年続くことになる。こうした永続関係は上昇志向が強烈で独裁的性格といわれたカラヤンにとって美談の一つと言えるかもしれない。
他方、公演のほうも、10月25日と26日の両日、ウィーン楽友協会ホール(ムジークフェラインザール)において、ウィーン・フィルを指揮し、ブルックナー8番をもって初めて大勢の聴衆を前に行われた。
近き将来、ヨーロッパ楽壇において帝王として君臨することになるカラヤンにとって正に輝かしい船出であった。同年の年末、12月20日と21日には、まるで祝砲のように、レッグと録音したばかりの記念すべき「第九」のライブ演奏がウィーンでカラヤンによって指揮された。合唱パートは、勿論、楽友協会合唱団がつとめている。
ちなみに、同じく同年4月に演奏許可の下りた巨匠フルトヴェングラーによってベルリン・フィルを指揮した戦後初めての復帰コンサートが開催されたのは、同年5月25日のことであった。
この47年以降、巨匠が亡くなるまでの約7年間、斯界を代表する2人の指揮者によるバトルでは、表面上は静かでも水面下では壮烈なる火花が散らされることになるのである。
この間、即ちフルトヴェングラー存命中は、カラヤンといえども、公演ではウィーン交響楽団と楽友協会合唱団、録音はレッグが録音用に組織したフィルハーモニア管弦楽団をその主たる活躍の場とせざるを得ない状況だった。しかし、54年11月30日、巨匠が没するや、間髪を入れず翌年2月、ベルリン・フィルを率いて初のアメリカ・カナダ演奏旅行を敢行し、帰国後の4月5日、フルトヴェングラーの後任としてその音楽監督に就任する。この過程でカラヤンによる様々な権謀術数が行われたといわれるが、以降、彼はこのヨーロッパ最高のオーケストラを足場に、忽ちにしてヨーロッパ楽壇における帝王の地位に向かってまっしぐらに駆け上がることになる。
世に熱烈なカラヤン・ファンは圧倒的に多い。同時に「カラヤン嫌い」もまた多い。理由はいろいろあるようだが、その人間性に我慢がならないと言う人も多いようだ。得てしてスーパースターにはそうした毀誉褒貶がつきものだし、有名税の一種みたいなものかもしれない。
ただ少なくとも彼の音楽に限ってみれば、筆者にとって最も好ましく幾多の感動を与えてくれた演奏は、大戦後の1946年以降1960年頃までの期間、一番油の乗っていた壮年期に録音されたものに多い。それ以降の美や完璧性のみを追求するような、更に言えば内面的な作品の本質を抉り出すことよりも、外観をいかに美しく完璧に整えるかに腐心し、技巧を弄するようなカラヤンとは峻別されるべきと考えているが、勿論、こうした傾向の演奏を好む人々も多いのだ。好みの問題といってしまえば、それまでだが ・・・。
本録音の初出は英コロムビアによるSP盤だったが、LPでは米コロムビアによる1949年発売の本アルバムが最初だった。 |