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第040回 2007/01/25
新春の定番、箏曲「春の海」と宮城道雄の生涯

日ビクター JL-116

宮城道雄
『春の海 ─宮城道雄の芸術─』

春の海/水の変態/さくら変奏曲/瀬音/落ち葉の踊り/秋の調べ/さらし風手事 宮城道雄(唄・箏), 宮城喜代子(箏・十七弦), 宮城数江(箏),
広門伶風(尺八)

(録音:1950年代)


 日本で新春の定番と云えば、何といっても琴と尺八による箏曲「春の海」であろう。たゆたう春の海を想起させるような長閑でしかも雅やかなこの調べは、お正月になるとどのデパートや、ショッピング・モール、あるいは名刺交換など諸々の年始の会などで必ずといってよいほど流されるが、それでも「ああ!お正月だな」としみじみ感じさせるのはやはり名曲たる所以であろう。
 この「春の海」、実は半世紀も前に亡くなった盲目の天才箏曲家、宮城道雄が昭和4年(1929年)に作曲した箏と尺八のための作品である。その翌年の勅題「海辺の巌」にちなんで、以前春の瀬戸内海で舟に乗ったときの印象を基に作曲したものだと云われる。
 緩・急・緩の三部形式で書かれた作品は、本来は箏と尺八の二重奏による標題音楽だが、いかにも春らしい浮き立つような気分にあふれ、しかも節度と品格があって日本古来の伝統的楽器、箏の音(ね)の優美さをこの上なく際立たせている。尺八の代わりにフルートやヴァイオリンに変ることもあり、1929年、フランスの閨秀ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと共演、レコード化されて以来、この曲の評判を世界的なものとした。

 そして筆者は、この曲を聴くと、何時も決って同じ「春の海」から始まる江戸中期の代表的俳諧師、与謝蕪村(1716〜83)の「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」の名句を想い出す。
 但し、この句の場合、時期的には新暦のお彼岸前後であろう、凍てつくように肌寒くドンヨリと暗くて荒々しい冬の海から一転して、明るい陽光の大きな広がりの中に、穏やかな波の打ち寄せる春の海のうららかな情景を感じさせるが、「終日のたりのたり」の表現が何とも秀逸。物憂い倦怠感が漂っていて、単なる情景描写に止まらず、作者の心象風景までもが活写されている。
 これに対し、箏曲「春の海」の方は、こうした長閑な春の海の情景とともに、盲目の人特有の研ぎすまされた鋭敏な感覚によって微妙なさざ波の動きや周囲の海鳥の鳴き声までが細かく描写されているところが興味深い。

 宮城道雄。貿易商の長男として1894年、神戸の外人居留地にて出生。出生後患った眼病がもとで7歳のとき完全失明。音楽に興味があった彼は、8歳のとき、生田流箏曲家、2世中島検校に弟子入りする。2世の死後は、3世について厳しい教育を受けるが、その効あって箏・三味線ともに数年のうちに目覚ましい進歩をとげ、11歳で免許皆伝。さらに独学で尺八も学んでいる。
 しかし、彼を取り巻く家庭環境は決して恵まれたものではなかった。物心がつくころに母が出奔、祖母に預けられるが、やがて父の再婚と事業の失敗、しかも再起をかけて朝鮮に渡った父は11歳のとき、暴徒に襲われ重傷を負う。以来、祖母を助けて自活せざるを得なくなり、中島検校の代稽古になる。
 2年後、父の赴任地、仁川に向けて出発、この地で、生活のため箏と三味線を教え始めた。その後、京城へ移り、1917年まで過ごすのだが、ここで大検校(だいけんぎょう)に任ぜられ、終生の友、尺八奏者の吉田清風と巡り会うことになる。吉田らの口添えでやがて1917年、23歳のとき上京。優れた箏の演奏家としてのみならず、朝鮮時代に作曲した「水の変態」以降、作曲家としても少しずつ知られるようなった。

1919年─東京本郷の中央会堂で第1回作品発表会を開催。
1929年─箏曲「春の海」を発表。
1930年─東京音楽学校教授に任命、同年、東京盲唖学校教授にもなった。
1931年─「春の海」のレコードが日米仏で発売。
1948年─芸術院会員となる。
1950年─放送文化への貢献で第1回放送文化賞が贈られる。

 その間、楽器の改良、発明にも熱心に取り組み、携帯用の短琴、大胡弓、八十弦箏などがあるが、とくに十七弦が有名。また、教育者としても、五線譜の採用、初心者のための教則本の編集および出版、ラジオによるセミナーなど功績があった。
 1956年6月、大阪での関西交響楽団との「越天楽変奏曲」の共演のため、夜行寝台列車「銀河」の車中、愛知県刈谷付近で転落死。享年62歳。現在でも事故か自殺か不明のままである。1978年、宮城道雄記念館開館。これは我が国最初の音楽家の記念館となった。

 彼の作曲・演奏上の顕著な特徴は、日本古来の伝統の上に、変奏曲形式など曲の構成、リズムやハーモニーなどに洋楽の要素を積極的に取り入れていることであろう。細かな奏法もスタッカート、トレモロ、アルペジオ、フラジオレット、ピッチカート、グリッサンドなどクラシック音楽の技法がふんだんに採用される。
 また、その活動においても、大正中期から昭和初期にかけて、彼が中心になり、尺八の吉田清風、作曲家の本居長世、評論家の田辺尚雄らとともに、あまりに狭く保守的な伝統を打破しながら、邦楽と洋楽の合体を目指した「新日本音楽」運動を展開するのだが、この運動はその後の日本音楽に多大な影響を与えた。
 後年、彼は、この事について「今考えてみると、外国の雰囲気があった神戸の居留地で、西洋の音楽や、いろいろなことを見聞きしながら、9歳まで育ったということが、自分の作曲や芸の上に影響しているのではと思っている。また、そのころまで眼が見えていたことも幸せだった」と述べておられる。

 もともと箏という楽器は奈良時代、大陸から渡来、平安・鎌倉時代に一時流行したようだが詳細は不明。歴史上に箏が登場するのは、足利時代になって北九州の僧、賢順により箏曲が制定され、その奏法が確立されてからである。これが筑紫流箏曲だった。江戸時代に入るや名人八橋検校がこの筑紫箏を改良・発展させた俗箏による八橋流を立てた。元禄期この一派から出た京都の生田検校は、更に発展させて1695年、生田流を名乗り、地唄と結びついて主に関西で普及する。他方、江戸では安政年間、山田検校が現れ、浄瑠璃や謡曲と結びついて歌本位の箏曲、山田流が樹立され、文化文政期以降、主に関東で勢力をもった。
 以来、関西では生田、関東では山田の二大流派が中心になって発展するが、生田流は器楽が主で歌が従の器楽的色彩が強く、これに対し、山田流は歌が主で器楽が従だった。その他、爪の形状、奏法などで細かな違いがあるようだ。

 ある意味では伝統的な生田流から出発しながら日本の諸古流を集大成し西洋音楽を取り入れつつ、楽器自体の改良やその奏法を含め音楽としての箏曲の近代化を見事に果たしたのが宮城道雄だった。そして、こうした洋楽導入も、歴史的に箏曲の場合は、平曲や地謡、あるいは按摩、鍼(はり)などと同様、八橋検校以来、盲人音楽家の専業が維持され制度として保護されてきた事実とも決して無関係ではない。ちなみに、検校とは盲人の最高位の官職名のことである。そのため三味線などほとんどの邦楽と異なり、歌舞伎、文楽などの演劇や舞踊などとは独立して発展してきたこと、また特に生田流では、器楽のみによる絶対音楽が多かったことから西洋音楽を取り入れ易く、有利だったこともあろう。
 尚、このレコードには、「宮城道雄の芸術」という副題があり、「春の海」以外にも最初の作品「水の変態」(1909年)以下、200曲に及ぶ彼の作品から邦楽評論家、吉川英史氏の選んだ代表的な作品7曲が収録されている。曲目は上記の通りだが、何れも箏独特の魅力あふれる名品・佳品ばかりである。

 さて、ジャケットであるが、江戸時代を代表する南画家でもあった蕪村だったら、どんな「春の海」の情景なのか大変に興味があるところだが、このジャケット画は、明治の代表的日本画家、横山大観による「朝陽映島」と題する作品。この人もまた一時期 “朦朧派”と呼ばれたりして、従来の日本画に飽き足らず西洋画の良さを大胆に取り入れようとした巨匠の1人だったが、晩年は、墨気と精神面を重視した独自の画境を確立した。