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第038回 2007/01/25
コルトレーンの「至上の愛」と宗教的恍惚感

米インパルス A77
ジョン・コルトレーン
『ア・ラヴ・シュープリーム(至上の愛)』

パート1−承認/2−決意/3−追求/4−賛美

J・コルトレーン(ts), M・タイナー(p), J・ガリスン(b),
E・ジョーンズ(d)

 

(録音:1964年12月9日 ニュージャージー)


 昨2006年は、モダン・ジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーンの生誕80周年だったが、今年は、一転して彼の没後40周年ということである。
 筆者の印象では、かなり遅れてジャズ・シーンにやって来たトレーンだが、50年代終わりころから、一気に花を咲かせて、あれよあれよという間に絶頂期を迎え疾風のごとく通り過ぎていってしまった。ある意味では晩成型の巨人であった。もう1人の巨人、マイルズ・デーヴィスとは良く知られている通り同年齢、しかもこの2人、1955年から60年までの期間は同じバンドで共通の目標に向かって切磋琢磨していた。兄貴分でリーダー格は、勿論マイルズの方だったが。
 喩えは良くないかもしれぬが、競馬という競技で最終コーナーまでは、常に断然トップに位置していたマイルズや、やや遅れて並走していた同じサックス奏者のローリンズの、遥か後方に付けていたトレーンが、最終コーナーを回って直線コースに入るや、一気に加速して、あっと云う間にマイルズまでも抜きさってしまった、トレーンの死後いつもそんな強烈な印象があった。
 左様、マイルズとは50年代後半のモード時代を共にするが、彼と決別した後のトレーンの旺盛な活躍には、まるで先行き残された自身の短い余命を予期していたかのごとき、閃光のような煌めきが感じられ、それは彼の晩年の豪華なディスコグラフィーにもハッキリと刻印されている。

 ジョン・ウィリアム・コルトレーン。1926年9月、ノース・カロライナ州ハムレット生まれ。生後直ぐそこからさほど離れていない同州ハイポイントに移り、この田舎町で17歳まで多感な青春時代を過ごしている。この辺りは、ワシントンDCとアトランタのほぼ中間に位置する黒人の多い地域で、黒人専用の教会が多く、今でもニグロ・スピリチュアルを聴くことができる。やがてフィラデルフィアに出たトレーンは、ガレスピー、ジョニー・ホッジス、アール・ボスティックなどのバンドと関わったが、当時はあまりパッとした存在ではなかった。漸くミュージシャン仲間とくに若手から認められるようになったのは、1955年以降、30歳近くなってマイルズ・デーヴィスのバンドに加わってからである。マイルズとは付いたり離れたりの状態が60年まで続くが、この時期は少しずつ機が熟しつつあったトレーンにとって絶好の充電期間でもあった。
 パーカー以来のビバップの伝統的コード進行に限界を感じていたトレーンは、同志マイルズとともにモード奏法を実験しながら成果を上げるのだが、そうした努力がマイルズのアルバム「マイルストーンズ」や「カインド・オブ・ブルー」などで結実していく。ちなみに、モードとは、旋法とか音階と訳されるが、一定の法則で並べられた音の配列のことで、時代や地域により当然異なるが、西洋では一般に教会旋法を指し、ドーリア、フリギア以下12種類の定型がある。例えば中世のグレゴリア聖歌でメロディはこの中の1つの旋法のみで書かれており、1曲が終了するまで旋法は一切変更せずに、ハーモニーなしのユニゾン(斉唱)で歌われた。マイルズたちのモード奏法は、この教会旋法をそのまま流用し、同様に途中旋法の変更はしないが、ハーモニーとリズムは加えた。中でもドーリア旋法がよく使われている。

 1960年、トレーンは、いよいよ満を持して自身の本格的クォルテットを発足させる。同年、アトランティックと契約、「ジャイアント・ステップス」「コルトレーン・ジャズ」「プレイズ・ザ・ブルース」「コルトレーン・サウンド」などの名アルバムを相次いで出したが、中でも「マイ・フェイヴァリット・シングス」(1960)は大好評をもって迎えられた。この時期にはかつて演奏したブルースやバラードも好んで取り上げた。
 また、ソプラノ・サックスの採用も画期的だった。従来モダンではクリーンで透明な音が出にくいなどの理由で、ほとんど使用されていなかったが、トレーンによりジャズ特有のブルーノートやモード奏法に効果的であることが実証されるや、急速にショーター他の追随者を生み、ポピュラーな楽器となっていく。
 61年以降、ABCパラマウントのマイナーとして発足した新興レーベル、インパルスとも契約、ファースト・アルバムは、「アフリカ・ブラス」だった。更にインドやアフリカ音楽などの影響も受け、これら民族音楽の旋法(モード)をベースとして彼の即興演奏はどんどん自由になり且つ長くなっていく。同時にデリケートで、しかも力強い表現によって内面的精神性が深まっていった。

 こうした到達点が、今回取り上げる1965年の「至上の愛(ア・ラヴ・シュープリーム)」だった。メンバーはトレーンのテナー、マッコイ・タイナーのピアノ、ジミー・ガリスンのベース、エルヴィン・ジョーンズのドラムス、これ以上ない“黄金のクォルテット”と呼ばれた編成だった。
 曲は全4楽章から成り、それぞれの楽章には、「承認」「決意」「追求」「賛美」という題が付けられる。彼がこの作品で訴え表現したかったのは、自身でも述べている通り、“愛、キリストへの愛、子に対する親の愛、恋人への愛、それらを包括し尚それを超える愛”であり、しかも愛の根源として我々にそうした愛を与えてくれる全知全能の神に対する感謝と祝福であった。
 むんむんする熱気の中に憑かれた呪文のような「承認」、ブルージーなムードと内部から突き上げてくる強いインパクトを感じさせる「決意」と「追求」。絶対神に対して感謝と祝福を捧げる荘厳でスピリチュアルな最終章「賛美」に至る長大な表現は、文字通り彼自身の頂点を極める作品となった。
 このアルバムは、翌65年に発売されるや、アメリカのみならず、世界各国で賞賛の嵐はピークとなり、「ホール・オブ・フェイム」「レコード・オブ・ザ・イヤー」「ジャズマン・オブ・ザ・イヤー」などほとんどの賞を総なめにした。売上げも1970年代末に100万枚を突破する。そしてこの作品を境に、トレーンは50年代後半以来追求してきたモード奏法から離れ、急速にフリー・ジャズへと方向転換していく。 しかし、その2年後の1967年7月、道半ばにして肝臓がんのため死去。享年は未だ40歳の若さだった。

 ジャケットは、モノクロによるコルトレーンのプロフィール写真。取り憑かれたような何とも真剣な表情のトレーンである。

P.S.
 2007年に入って早々、コルトレーンの妻であり、芸術上のパートナーでもあったピアニスト、アリス・コルトレーンの訃報が報じられた。トレーンと共に66年に来日したりしたが、彼の死後も音楽活動を継続し、2004年には、「トランスリニア・ライト」を発表。米紙ロサンゼルス・タイムズの記事によると、1月12日、呼吸器不全による死去だった。享年69歳。