第013回 2006/03/28 |
さよなら、ジョーン─ある反戦フォーク歌手の半生 |
米ヴァンガード VSD-79200(ステレオ)/ さよなら、アンジェリーナ/わが心のダデイ/イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー/ワイルド・マウンテン・タイム/レインジャーズ・コマンド/カラーズ/サテイスファイド・マインド/松林の川/花はどこへ行った/はげしい雨が降る ジョーン・バエズ |
「私は才能に恵まれて生まれてきた。私は深い感謝をもってこの才能を語ることができる。なぜなら、それは私が創りだしたものではなく、神そのひとの贈り物だからである。・・・何らかの力によって与えられた最高の贈り物、それはこの歌声だ。そして、2番目の贈り物−これがなければ、私はおそらくまったく別の人間として別の人生を歩んでいたことだろう−それはこの声を、神から与えられたこの恩恵を、他のひとと分かちあいたいと思う激しい情熱だ」(ジョーン・バエズ自伝 矢沢寛/佐藤ひろみ訳 晶文社) ジョーン・バエズ。1941年、後にスタンフォードやMITで教鞭をとるメキシコ系物理学者の父とスコットランド出身の母の間にニューヨークで出生。従って、生まれながらにして彼女の血には、父方のラテン的情熱と母方からは質実な忍耐強さが混在していた。小さいころから肌の色などで屈折した思いを味わされたりはするが、信仰心豊かな両親のもと、考えることの好きなごく普通の女の子として成長。とくにその天性の透明な美しいソプラノは小さいころから大いに注目された。10代初めから歌とギターを習い、ボストン・カレッジ在学中には、コーヒー・ショップやクラブで歌うようになる。1959年、第1回ニューポート・フォーク・フェステイバルに飛び入り出演するや、熱狂的支持を受けて、一躍スターダムへと駆け上がり、翌60年、第2回フェステイバルに正式出演。このころには、早やフォーク歌手として全米で不動の地位を獲得していた。 もともと フォーク・ミュージックなるもの、日本語では、民族音楽とか民謡とか呼称されるが、古来より伝承された民族的要素が何よりも不可欠となろう。当然、それぞれの民族固有のあり方によって、歌の形態も千差万別に、生まれ発展していく。比較的新しい国、アメリカの場合、18世紀以来、イングランドやアイルランドのアングロ・サクソン系民謡をベースに、移住労働者や黒人のワークソング、プロテスト・ソング、ブルースなどと混り合い発展してきた。例えば、20世紀前半の状況は、アパラチア山地を中心とした白人農耕者たちの間では、ジーン・リッチー、フランク・プロフィット、“トム”アッシュリー、ドク・ワトソンたちが、もう少し南部の黒人労働者の間では、レッドベリー、“レヴェレンド” ゲイリー・デービス、“ミシシッピー”ジョン・ハントたちがそれぞれの地方で活躍していた。 さて、本来ならジョーンの代表的アルバムとしては、先に列記した曲を収録した第1作「ジョーン・バエズ」(1960)とか、第2作「イン・コンサート(第1部)」または「同(第2部)」を選ぶべきかもしれないが、ここでは、同じ60年代前半の集大成である「さよなら、アンジェリーナ」を取り上げることにした。同じモダン・フォークの先輩ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、そしてこのタイトル曲を含めた全11曲中4曲が、盟友でもあり恋人でもあったボブ・ディランの曲によって占められる。強いてこの中で目玉を選べば、最後の2曲であろうか。最後の曲が、ディランの「はげしい雨が降る」、その1つ前が「花はどこへ行った」。これはドイツ語訳で唱われているのが珍しい。 70年代半ばになると、公民権運動の終息などにより、あれほど盛んだったフォークも漸く下火となり、当然のようにポップス音楽への大きな潮流の中に吸収されていく。プロテスト・ソングを中核としたモダン・フォークというジャンルは、1つの大きな役目を果して消えていったというべきか。筆者には、あのころアメリカの若者たちと共有した熱狂が堪らなく懐かしい。 ジャケットの撮影は、名写真家リチャード・アヴェドンによるもの。一見してメキシコ系血統を受け継いだようなジョーンの表情には、未だ20代半ばながら年よりやや老けた感もあるが、売出しのころとは明らかに違う、女闘士的強靱さも感じさせるところなど、その内面を抉りだした優れたポートレイトである。 |