英語名は直接的です。「カキ食い鳥」とでも訳せましょうか。英名にあるように、カキを含めた貝類を主に食べるといわれていますが、浜辺にいて潮の引いた干潟の小動物を、目立つ長い赤いくちばしで探り当て餌とすることもあります。写真でお分かりかと思いますが、黒い背中、羽のほとんどの黒に対して、腹部が真っ白、目立つ赤い嘴と脚、それに虹彩も赤で、干潟の鳥の中では大きいほうですので、まず見間違えることはありません。
ミヤコドリの語源は、『伊勢物語』の東下りの一節にあるといわれています。以下その部分です。
「武蔵の国と下つ総の国との中に、いと多きなる河あり。それを墨田川という...白き鳥の嘴と脚の赤き、鴫の大きさなる、水のうえに遊びつつ魚を食らう。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、『これなむ都鳥』といふを聞きて、 名にし負わば、いざ言問わむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり」 |
在原業平をモデルとしたとされるこの主人公がその名を訊ね、渡守が答えた、「都鳥」は、今日、英語で「Oystercatcher」といわれるチドリ目の鳥ではなさそうです。 白き鳥で、脚と嘴が赤いとあります。更にこの一節の中で、「魚を食らう」とありますので、これは、ミヤコドリと学名をつけられたチドリ目の鳥ではなく、カモメの一種、ユリカモメのことです。ミヤコドリの主食は貝です。それにユリカモメは、よく飛び回りますが、ミヤコドリは仲間内のえさの奪い合い以外には、干潟にいて、こつこつと砂のなかの餌を探し回っていますので、それほど活動的には見えないのです。
ではなぜチドリ目のOystercatcherをミヤコドリと名づけたのでしょうか。長い間疑問でした。今年(2003年)2月に出された、松田道夫さんの著書、『大江戸花鳥風月名所めぐり』で疑問が氷解しました。以下は氏の説明の私なりの理解です。
Oystercatcherをミヤコドリとしたのは、江戸時代の北野鞠塢で、上に挙げた出典にある、しろきの「し」は、実は「く」であり、この鳥は、白いのではなく黒いのだとして、強引に伊勢物語の都鳥をチドリ目のOystercatcherの和名にしたというのです。明治維新をへて、鳥類の和名統一が図られたとき(飯島魁博士)、恐らく博士が参考にしたであろう島津重豪の『鳥類便覧』がこの北野鞠塢の牽強付会な説を取り入れたため、学名として、Oystercatcher は、ミヤコドリと「決まってしまった」というのです。
しかし、『伊勢物語』の時代から千年有余を経て、この隅田川を含む一体が都(首都)となり、そこで歌われた「都鳥」が、学名こそ「ユリカモメ」と読みかえられたにせよ、首都・東京のシンボルに選ばれたのですから、これで結果オーライとすべきかもしれません。
さて、学名を「ミヤコドリ」と付けられたこの鳥は、日本には、冬鳥としてカムチャッカ、中国北東部から、九州、本州、東北地方の沿岸のかなり決まった場所に毎冬渡ってきます。たとえば、関東地方では、東京湾内の三番瀬への飛来が有名です。各地方の報告では、どんなに多くても100羽を超えることはなく、普通数羽からせいぜい20羽程度の群れがバーダー達の間では話題になったりするくらいですから、希少種といってもよいのでしょう。
東京湾でハマシギとともに朝日の中を飛翔するミヤコドリたちです。